前編

恋じゃなくていいの続き


 

二泊三日の離島を楽しんだ僕たちは、東京に戻ってから、事の顛末を皆に伝えた。

「え?嘘でしょ・・・・」

「悠理と?」

「いつの間に?」

「へぇ、なるほどねぇ。」

それぞれの反応を楽しむ余裕がない悠理は真っ赤になりながらも、僕の袖をしっかりと掴んでいる。
そんな消極的な態度は、あの夜の激しさを全く感じさせない。
嵐の中、僕への恋心を叫ぶ悠理は、目を奪われるほど鮮烈で美しかった。

「じゃあ、あんたお見合いは断るのね。」

「もう断りましたよ。」

「相手はさぞかし残念がっただろうな。」

「それがあっさりと納得してくれました。未練など全く見当たらないほどに。」

「そんなもんかねぇ。」

腑に落ちない魅録は煙草を取り出すと、チラリと野梨子を窺う。
が、しかし、彼女もまた同じような面持ちで、静かに瞼を落とした。

「あんた、本気で悠理がいいの?」

「本気ですよ。」

「この子が好きなのよね?」

「そりゃ、長い付き合いですから・・・・」

「あたしは恋してんのか!って聞いてるのよ。」

またしても「恋」。
馬鹿の一つ覚えかのように持ち出されるのは、正直苦々しい。

悠理を大切に思っている。
かけがえのない存在だと確信している。

それだけで何が問題だというのだ。

「すぐに頭を切り替えたりは出来ませんが、とても愛しいと感じています。一生、変わらない自信はありますよ。」

「清四郎は自信家だからねぇ。」

美童の横やりにも負けず、僕は悠理の手首をギュッと握りしめた。

「いいわ。あんたが大事にするって言うんなら、皆で拍手してあげる。」

「もちろん、大切にします。」

「一生よ!」

「一生ですよ。」

僕たちの遣り取りに俯いたままだった悠理は、ようやく顔を上げ緊張を解いた。
皆が祝福してくれる事こそが、二人の本懐。
彼女はそれぞれの顔を見つめながら、囁くように歓びを伝える。

「あんがと。」

そうして彼らは心からの拍手を贈ってくれた。

6人の中で初めて生まれた変化。
これから先もきっと上手くやっていける。
僕はそう信じて止まない。



東京に戻って5日後。
一通の招待状が、僕宛に届く。
送り主の名は「芳川 美春」 (よしかわ みはる)、僕の見合い相手だ。
どうやらパーティの招待状らしい。
短い手紙には「是非ご参加を」と書かれていたため、早速電話を手に取った。

「大叔父が是非ご招待しろと煩いんですの。」

「それは、何故?」

訝しげに尋ねると、
「ああ、深読みなさらないでくださいね。わたくし自身、菊正宗様にはご紹介したい方がたくさんいらっしゃるんです。もちろん友人として。大叔父はその内の一人ですわ。」
と、用意された答えが返ってきた。

’友人’ね。

そんなつもりはもちろん無かったが、ここは大叔母の顔を立てて出向くとしよう。
芳川のサロンに出入りしている彼女は、お見合いが破談したことで随分と機嫌が悪いのだから。

聞くところによると、招待された顔ぶれは錚々そうそうたるもの。
中でも「ノーベル物理学賞」を授与した「宝川教授」とは是非とも話がしてみたかった。

参加すると返事をした後、悠理の顔が頭を過ぎる。
彼女も誘ってみようかと一瞬考えたが、すぐに諦めた。
文人、知識人の集まりに彼女は向いていない。
きっと5分で退屈だと騒ぎ始めることだろう。

「さてタキシードが必要ですかな。」

この時の僕は、確かに浅はかだったのだ。
「女心の分からぬ唐変木」と詰られても仕方がないほどのミス。
芳川美春の誘いに乗ったことで、悠理を傷つけることになるなんて思いも寄らない。




パーティを三日後にひかえ、僕と悠理は初めてデートらしいデートをした。
東京湾をわざわざ埋め立て建造された、日本一の水族館。
水槽は世界最大級の大きさで、泳ぐ魚の数は間違いなく世界一だった。

週末ということもあり子供達で賑わっている。
同じようにはしゃぐ悠理の背中を見つめながら、僕はまるで保護者のように誘導していた。

「こっちに来なさい。ペンギンのコーナーがありますよ。」

「こらこら。小学生達の邪魔をしない。」

「そろそろ休憩しませんか?喫茶コーナーに行きましょう。」

これはデート・・・なのだろうか。
いつもの様子と何ら変わりない。
だが悠理が笑っていると、いつの間にかこちらの口角まで上がっているのだから不思議だ。
心が優しくなる。
日々の忙しさに疲れた心が、静かに凪いでいく。

「シロクマパフェだって!あたいこれにする。」

「これまた大きなパフェですな。腹を下しませんか?」

どう見ても3人前はあるかき氷とアイスの塊。
見ているだけで胸焼けがしそうな量の生クリームと練乳が、トッピングされたフルーツに覆い被さっている。

「あ~・・、じゃ、半分こする?」

それは驚くべき台詞。
彼女にとってこんなボリューム、屁でもないはずなのに。

「どうしたんです?いきなり・・・」

思考を探ろうとすれば、悠理はポッと頬を赤らめた。

「だ、だって、もしお腹壊して、この後のデートが潰れちゃったら勿体ないじゃん。」

目が覚めたような気分だった。

こいつはなんと可愛い言葉を吐くのだろう。
とてもいつもの食欲魔神とは思えない。
恋とはここまで人を変化させる力があるのか!?

複雑な気分を抱きながらも、そんな彼女に男としてのボルテージが一気に上昇する。
抱き締めて、キスをして、とことん可愛がってやりたい。
衝動的な欲求すらこみ上げてくる。

「悠理・・・・」

「な、なに?」

「おまえが、好きです。」

周りは親子連ればかり。
喧噪の中には赤子の泣き声すら混じっている。

しかし僕の声はしっかりと届いたのだろう。
弾かれたように目を見開く彼女は、ゆっくり歓喜の涙を浮かべた。

「う、うん。」

その時抱いた気持ちが「恋」だとするのなら、僕は初めてそれを知ったことになる。

「あ、これ、食べる?」

慌てて涙を拭い、スプーンで掬った甘ったるい氷を差し出す悠理。
僕は彼女の手をそっと掴み、引き寄せ、そして口付けた。

「悠理が食べたいな。」

「え?」

「今夜は家に帰したくないんですが、いいですか?」

ボタっと落ちた氷が静かに水へと戻っていく。

「え?」

「さすがに分かるでしょう?僕が何を求めているか・・・」

「え、で、でも・・・あの・・・・」

激しく揺れるは乙女心か?
これ以上無いほど赤く染まった彼女の熱で、スプーンがどんどんと温くなる。

「恋人になろう、悠理。」

そんな宣言から20秒、彼女は恥ずかしそうに俯いた。
もちろん、了承の意味を込めて。


「あ、あたい、やっぱトイレ……」

「もう六回目ですよ。ちょっと緊張しすぎじゃないですか?それとも………本当に腹でも壊したのか?」水族館は閉館間際まで楽しんだ。
というか、楽しまされた。
少しでも先伸ばしにしようとする彼女の気持ちを汲んで、最後まで付き合ったのだが、次に向かったホテルの夕食中でも、どことなく気はそぞろ。
それでもフルコースをペロリと平らげていたため、体調に不備は見当たらない。
となると、やはり彼女は柄にもなく緊張しているのだろう。

もちろん僕だって同じだ。
恋を自覚した途端、身体ごと欲しくなるなんて、男として未熟にも程がある。
かといって、発言を撤回するほど余裕があるわけでもない。
これも全て可愛すぎる悠理が悪いのだ。
とまあ、人の所為にしたりする。

週末のシティホテル。
奇跡的に部屋が空いているわけもなく、そこは剣菱の名前を出し、何とかエグゼクティブスイートを用意してもらった。
最初は部屋のきらびやかな内装にアレコレ文句をつけ、何とか話を逸らすことに成功していた悠理も、徐々に空元気が無くなり、東京の夜景が一望出来る大きな窓辺で、萎れた花のように肩を竦ませる。
そんな頼りなげな後ろ姿すら愛らしい。

「腹はどうもないよ。」

「なら、怖いんですか?」

「こ、怖いよ、そりゃ………」

見れば寒くもないのに、小刻みに震えている。

「別に命を奪おうってわけじゃないんだ。落ち着きなさい。」

そっと肩に手を置くと、過剰なほど大袈裟に身体をびくんと跳ねさせた。

「う、うん。」

僕としたことが………どうもムードが足りないな。
まあ、悠理とこうなることなんて、少し前までは考えてもなかったのだから、酌量の余地はあると思う。

彼女から一旦離れ、用意されていたワインクーラーからシャンパンを取り出す。
ここは酒に限る━━なんてあからさまな手法を用いる僕は、やはり未熟の限りだ。

「飲みませんか?」

グラスを二つ手に取って、涼やかな音を立てれば、悠理は恐る恐るこちらを振り返った。
冷えたシャンパンの魅力には抗えないのだろう。
それとも彼女も酒の力を必要としているのか?

「飲む。」

何かを割りきったかのようにスタスタと足を運び、ふかふかのソファにドスッと腰を落ち着かせる。
綺麗な泡を立てる酒をくいっと飲み干す姿は見ていて清々しい。

「んまい。」

それもそのはず。
これは、このホテルで最高のシャンパン。
一本50万は下らない。

「確かに。これも‘剣菱’の名のおかげですな。」

何気なく呟いた言葉を、しかし悠理はすかさず拾った。

「’剣菱‘……か。おまえ、まだ剣菱(うち)が欲しいの?」

そんな直球の質問に誤魔化せるはずもない。
ひとつため息を吐いた後、僕は素直に答えた。

「’欲しくない’と言えば嘘になります。男として生まれたからには最高の場所で実力を試したい。」

「ふーん……そんなもんなんだ。」

「ええ。僕は野心家ですからね。でも……今は何よりもおまえが欲しくて堪りません。こんな台詞、信じられませんか?」

「ううん。んなことないよ。それに…………」

彼女は一瞬だけ目を泳がせた後、はっきりと告げた。

「今はあたいの方が………清四郎を好きだから。」

照れることもなく、真っ直ぐに気持ちを伝えてくる悠理の瞳は、どの宝石よりも美しいと感じる。
あの夜もそうだった。
男を━━━━この僕を魅了する、比類ない輝き。

「お見合い、断ってくれてあんがと。」

そう言ってはにかんだ笑顔を見せられれば、座った腰が落ち着かない。

「一体……僕のどこが好きなんです?昔はあれほど逃げ回っていたくせに。」

━━━そう、一体どこが好きなんだ?

見過ごしてきた彼女の気持ちを、この耳ではっきりと聞きたかった。
いつ、
どんな風に、
僕への恋を自覚したのか。

悠理は飲み干したグラスをテーブルに置くと、そっと立ち上がり、僕の隣へと座り直した。
ちょこんと腰掛け、こちらを見上げる姿は何かを訴えかけるようで………思わず、ごくり、唾液を飲み込む。

「全部…………好き。」

「━━━━━え?」

「あたいだって不思議なんだもん。おまえの性格は苦手だったし、見た目だって好みってわけでもなかったのに、何でこんなに好きになっちゃったのか分かんないんだよ!」

「でも…………」

首を振り、乱暴に息継ぎをして、彼女は続ける。

「’見合いした‘って聞かされた時、鳥肌が立った。おまえがあたいから離れていくって想像して、頭がおかしくなりそうなくらい寂しくなった。清四郎はあたいのもんなのに!って………胸が焼けたんだ。相手の顔も知らないのに、知りたくなんかないのに、勝手に思い浮かべて、切り刻みたくなった!」

もう、充分だった。
激しい独占欲を目の当たりにすれば、僕は悠理を抱き締めるほかない。
可愛くて、可愛くて。
薄い背中を絞るように抱き、自らの高鳴る鼓動を相手へと伝える。

「一緒にいると………約束しましたね。」

「━━━うん。」

「あの時、本当は、友人としてのおまえを失いたくなかったから、そう告げました。」

「━━━━うん。」

「だが、今は違う。」

言って、彼女のふわりとした前髪を掻き分け、おでこにキスを落とす。
くすぐったそうに肩を竦める幼い悠理。
男の膨れあがった欲情が、目の前には横たわっているというのに。

「僕は、僕の人生から‘悠理そのもの’を失いたくない。友人なんて括りじゃ我慢できないほど、おまえを好きになってしまった。」

「せぇしろ…………」

「恋、してしまったんです。小猿だったはずの友人に、ね━━━━」

馬鹿………と呟く唇を無理矢理塞ぐ。
シャンパンの香りよりも、彼女のそれは甘く、爽やかだった。

「悠理・・・・」

「ん?」

「いいんですか?」

「……………そのつもりのくせに。」

「好きです。」

頭のどこかで分かっていたのかもしれない。
いつか彼女に恋することを。
彼女にしか’恋’出来ないことを。
高いプライドが邪魔をして、そんな気持ちに分厚いベールをかけていたのかもしれない。

悠理しか居ないんだ。
こんなにもワクワクさせられる相手は。
人生を賭けても惜しくないと思う女は。


その夜━━━━

僕たちは結ばれた。
友情よりも強い絆で。

悠理の事なら何でも知っていると思っていたが、その自負は脆くも崩れ去った。

こんな可愛い声で啼くなんて。
こんな可愛い表情で煽ってくるなんて。

小さな胸を気にしながら、灯りを消せと叫ぶ彼女をベッドに縫い止め、僕はその全てを知った。
彼女が知り得ないだろう部分も、全て━━━━

「あ………ぁ、せぇしろぉ………」

この甘い声は僕のもの。
一生、誰にも聞かせることはない。

滑らかな肌も、
柔らかな四肢も、
玉のように弾く汗すら、僕のものだ。

そんな所有欲に駈られた所為か、一晩中彼女から離れられない。
うつらうつら、瞼を落とす悠理を抱き寄せ、背後から優しく繋がると、僕もまたそのまま深い眠りに落ちていった。

愛しい存在を胸に抱きながらの眠りは、想像を遥かに越える満足感。

朝、恥ずかしそうに身動ぎ、顔だけで振り返った悠理があまりにも可愛くて━━━
当然の如く盛ってしまった事については、言い訳しない。
それほどまでに、心が身体を支配していたのだから…………。


パーティと称した懇親会は、都内でも少し外れにある‘旧桧生原(ひさはら)邸’で行われた。
格式を感じさせる雅な和洋建築。
広い庭園と錦鯉の泳ぐ大きな池が、二階のテラスから一望できる。
彼女の曾祖母にあたる人物は、皇族に嫁いだ後、直ぐに夫と死別。
その後、この屋敷を与えられ、89歳で息を引き取るまで、たった一人で暮らしていたと言う。
それからは芳川家が管理しており、こうやって時々パーティを開いては、家の空気を入れ換えるらしい。
全くもって優雅な話だ。

招待客は想像以上の顔ぶれだった。
面会を切望していた宝川教授はもちろんのこと、親父が尊敬しているノーベル生理学・医学賞を受賞したばかりの‘緑山’栄誉教授。
彼は学生だった親父の恩師でもある。

その他にも各界の著名人、そして多くの文豪が顔を連ねていた。
よくよく見れば、テレビでお馴染みの国会議員までもが交じっている。
この懇親会は、彼らにとって何かしらの旨味があるのだろう。
客の間を忙しなく行き来していた。

「お待ちしていましたわ!」

嬉々として出迎えられた僕は、思わず目を瞠る。
ブルーのドレスを纏った‘芳川美春’は、前回のイメージと大きくかけ離れていた。
胸の開いた、しかし決して下品ではないデザインは、むしろあざとさすら感じるほどよく似合っている。

「気の短い大叔父がまだか、と煩くて。」

 

半ば強引に腕を引かれ、紹介された大叔父の名は桧生原文伍(ひさはらぶんご)、御年78。
矍鑠(かくしゃく)とした姿からは、とても80間近には見えない。
真っ黒のタキシードに、ペイズリー柄をした臙脂色のタイ。
蓄えた髭は恰幅の良い躰に更なる貫禄を与えていた。

現在は息子と二人、不動産業を営んでいて、ありとあらゆる業界に顔が利くらしい。
そんな彼のお気に入りである彼女は、嬉しそうに腕を組み、甘えるよう何かを耳打ちした。

「今はもう他界しておるが、わしの妻は菊正宗先生にお世話になっていた。最後まできちんと面倒をみてくださって本当に感謝している。」

それは初耳だったが、親父は日本随一と評判の心臓外科医。
然もありなん、だ。

「聞けば、色んな分野に精通しているらしいですな。わしはこう見えてどんな業界にも顔は利く。美春たっての希望だ。誰にでも紹介させていただこう。」

「おじさま、ありがとう。」

カチリ

小さな警鐘が聞こえたような気がした。
しかし、目の前の誘惑に勝てなかった僕は、桧生原氏に連れられ、あらゆる人物に面通ししてもらった。
側にはぴったり「芳川美春」が付いて歩いていたが、それを気に掛けず、にこやかに挨拶する。

「ほう、菊正宗大先生のご子息か。なかなかの美男子ですな。」

「美春ちゃんとお似合いじゃないか?」

「いやいや、どちらも引く手数多だろう。」

「もしかすると既に・・・?」

彼らの勝手な憶測を曖昧にかわしながらも、ようやく違和感に気付いた。
彼女は、もしかすると・・・・・


「菊正宗さんは、どなたにご紹介しても評判が良いですわね。」

テラスに誘われた僕は、口当たりのよいワインを片手に庭を眺める。
剣菱邸にも劣らぬ広大な敷地。
手入れされた庭は同じだが、違うと言えば、チグハグは置き物が見当たらないことか。

「光栄です。」

「私、本当に残念ですわ。そう言えば理由をまだ伺っていませんでしたわね。」

「理由、ですか・・・。」

ここは素直に伝えるべきだろう。
後々のいざこざを回避するために。

「好きな女性がいるんです。」

「まあ!」

「最近、自覚したばかりですが・・・・彼女の存在価値を認識してしまい、自分の気持ちに正直になろうと思いました。」

「菊正宗さんが想われるほどの女性ですもの・・・さぞかし素敵な方なんでしょうね。」

彼女が思い描く’素敵’とはかけ離れているだろうが、僕にとって悠理は唯一無二の女だ。
ここは真っ直ぐな気持ちで頷く。

「ええ。とても。」

「もしかして、幼馴染みの白鹿様?」

「え?」

「あら、そんなに驚かれなくても。お隣同士仲が良いと伺ってますわ。」

サロンに通う叔母が何かを言いふらしているのは予想していたが、全く余計なことを。

「噂と真実はたいてい違うものです。」

「そうね。では・・・・剣菱様かしら?」

胸がざわりと騒いだ。
僕のポーカーフェイスをかいくぐり、彼女の目がビンゴ!と光る。

「婚約までしていらっしゃった仲ですもの。おかしくはありませんわ。そう・・・やはり剣菱様。」

自分を納得させるように呟く彼女は、クスッと笑みを溢した。
誰でもない、自分の見合い相手のことだ。
もちろんいろんな調査をした上で、見合いに臨んだのだろう。
世が世なら本物のお姫様。
慎重になって然りだ。

「折角のご縁だと思いましたが、仕方ありませんわ。人の心だけはどうしようもありませんから。」

長い睫毛を伏せ、くるりと背を向ける。
艶めかしくも白い肌が、室内から届く仄かな灯りに照らされ、僕は思わず顔を背けた。
しかし・・・・

「あ・・・!」

突如として小さな悲鳴をあげ、彼女がこちらに倒れてくる。
どうやらヒールでドレスの裾を踏んでしまったらしい。
羽のように軽い身体を抱き留め、「大丈夫ですか?」と尋ねれば、「ええ。」と濡れた瞳でこちらを見上げる。
誘われていると直感したが、もちろんそれを振り切り一人立ちさせると、「ふふ・・・ストイックな方。」と甘い声で囁いた。

数本の乱れた髪をそっと掻き上げ、彼女は真っ直ぐに歩き始める。

恋愛慣れしていない?
どこがだ。

この僕すら舌を巻くほどの二枚面。

やれやれ。
悠理のことはさておき、やはり断って正解だったな。

もしかすると、夜になれば更に魅力的な女へと変身するのかもしれないが、残念ながら心は動かない。
悠理を、そして恋を知ってしまった今となっては・・・・ちっとも。

だが、僕は甘かったのだ。
芳川美春のプライドは、想像以上に高かった。
彼女は狙った獲物を簡単に手放すような女ではなかったのだ。

それに気付かなかった僕は、後々このパーティに参加したことを深く後悔することとなる。