恋じゃなくていい

「あたいがおまえを好きだって言ったら、どうする?」

吹き荒ぶ風雨の中、彼女はハッキリとそう言った。
浴衣の袖をギュッと握りしめ、浚われる髪が顔の半分を隠す。

言葉が返せない。

そんな経験は、優秀な僕にとって初めてのこと。

「あたいは…………いつまで経っても、おまえのペットでしかないのか?」

ごうごうと風が鳴り響いているにも関わらず、何故、彼女の声はこんなにもクリアに耳へと届くのか?

袂に入れた携帯が鳴り響く。
その相手が誰か、なんとなく分かってはいたけれど、僕はそれを無視したまま、目の前に居る友人をただじっと見つめ続けた。


悠理から衝撃の告白を受ける一ヶ月前。
僕は初めて’見合い‘という時代錯誤なイベントに出席した。
父方の叔母に頭を下げられ、仕方なく。

お相手は旧華族の家に生まれた生粋のお嬢様。
横浜の女子大に通う、同い年の女性だった。
世が世ならば本物のお姫様だという。
加賀友禅の見事な振り袖姿で現れた彼女の、帯にかかる長い黒髪は、数あるパーツの中でも一番印象に残っている。
美人といえば美人。
清楚な雰囲気は、山の奥深くで湧き出る澄んだ水を連想させた。

相手が僕を気に入った為、悩んだ挙げ句、もう一度会う機会を設けるという約束に承諾した。
彼女に興味があったわけではない。
あくまで、叔母の顔を潰さないための礼儀のつもりで。

誰よりも興味津々の姉は、
「いい話じゃない?この間の婚約話に次いで。」
と嫌味たっぷりに言い放つ。
彼女は悠理を、そして悠理の家族を気に入っている為、失敗した僕に対し、どことなく辛辣なのだ。

「でも、あんたがそのお姫様と上手くいくかしらねぇ?」

「まだ一度しか会ってませんよ。」

そう、一度しか会ってない。
心が動くはずもない。

だが僕は知っている。
たった一度でも’強烈な印象‘を与える人物がこの世に存在することを。
’心惹かれる‘・・・とは、まさにそういうことなのだ。



案の定、僕の見合い話は五人に筒抜けだった。
隣家の幼馴染みは意外と地獄耳。
もちろん出どころは明確だ。
彼らはまるで芸能スキャンダルかのように囃し立てる。

「見合いねぇ。さっすが大病院の息子は引く手数多あまただな。」

「こんなにもスペックの高い男はさすがに居ないからね。頭よし、顔よし、家柄よし、将来性抜群。悪いのはプライドの高さと性格だけ。」

「その嫌味な性格で死ぬほどお釣りが来るわよ!それで?相手のお姫様はどんな感じなの?美人?」

━━わたしより?

可憐が女性を意識するのは、肩書きよりも相手の容姿。
全く、いつまで経っても変わらない人だ。

「そこそこ美しい人だと思いますよ。清楚で初々しい感じの。」

「あら、清四郎。気に入りましたのね。」

片眉を上げ、涼しい顔で窺ってくる野梨子の言葉には小さな毒針が仕込まれている。
恐らくは姉貴から僕の偵察を頼まれたのだろう。
女というものは、いつ何時でも結託するから敵わない。

「羨ましいよ、清四郎。非の打ち所のない無垢なお姫様を、自分の好みに育てられるんだからね。あぁ、僕もそろそろそんな相手が現れないかなぁ。」

「おまえは光源氏みたいにずーっと年下の女を狙うんだろ?今はまだ犯罪だからやめとけ。」

魅録の突っ込みに、美童はあっさり苦笑いで引いた。
人の見合い話で盛り上がる彼らは、要するに’閑‘なのだろう。
これ以上、ツマミにされるのは勘弁願いたい。

ふと窓際に佇む悠理が気にかかった。
詰まらなさそうに外を見ながら、それでも手にした煎餅をバリバリかじっている。
数枚を残し、深い溜め息を吐く理由は、僕にはわからない。
ひどく不機嫌そうにも見える為、ここは矛先を変える意味も含め、一つの提案をした。

「そんなことより、次の連休はどうします?早めに宿を取らないと、いつものようにぼやく羽目になりますよ。」

案の定、悠理は子犬のように振り向き、皆のテーブルへと駆け寄ってくる。

「ならさ!前、行きそびれた●×島に行こうよ!魚も旨いし、海にも巣潜り出来るんだ!!あたい雲丹とかアワビ採りたい!」

さらりと違法性のある事を言うが、それも今さらのこと。
しかし可憐が詰まらなさそうにぼやく。

「海ねぇ。むしろ海しかないド田舎なんでしょ?」

「あら、美しい夕日を眺めながら、肌に良い温泉が楽しめると聞いていますわ。」

「たしか海と一体になってるんだよね!ロマンチックじゃないか。」

「そうそう。穏やかな水平線がどこまでも続いて、悪くない景色だと思うぜ?」

乗り気な四人の言葉に見事乗せられ、不満げだった彼女も「あら、それなら悪くないわね。」と納得した。

「なら、決まりですな。お目当ての民宿には六人で予約しておきますよ。」

「「「「「はーーーい!」」」」」

しかし━━━━━

当日、待ち合わせ場所に集まったのは魅録と悠理だけ。
野梨子からは朝方連絡があり、おばさんが熱を出して心配なのでキャンセルするとのこと。
「あとの二人はどうした?」
そう尋ねれば・・・・

「美童は用事で遅れるってよ。夜には到着するらしい。可憐は……」

「可憐は?」

「夕べ、宝飾業界のパーティで知り合ったハーフのイケメンとデートだとさ。そいつ、明日にはアメリカに戻っちまうみたいで、今日中に落とすって息巻いてたぜ。」

━━━なるほど。友情よりも恋を選ぶとは、可憐らしい。

「仕方ありませんな。三人で向かいますか。」

どう見ても不満げな悠理の背中を慰めるようポンポンと叩き、先を促す。

「可憐の薄情もん!!もう、絶交だい!」

そろそろ成人を迎えるというのに。
口を尖らせる彼女は幼い。

「悠理も恋をすれば、僕たちのことなんかどうでもよくなるかもしれませんよ?」

「あたいは……!!そんなのなんない!」

「…………だといいんですけどね。」

そう。
彼女はこのままでいてほしい。
恋などに縛られず、自由気ままに僕たちを楽しませてほしい。

悠理は太陽だ。
時々、多大な迷惑も被るが、それ以上に刺激的で光溢れる世界へと誘いざなってくれる。
決して欠かせないメンバー。
もちろん誰一人としてそうなのだが、彼女は間違いなく僕たちの「核」である。

「おまえこそ…………」

「え?」

「おまえだって……’恋‘したら、あたいらのことなんかどーでもよくなるくせに。」

傷ついたような瞳が、
噛み締めた唇が、
不安げな声が、
悠理から初めて’女性らしさ‘を感じさせた。

「なりませんよ。僕は………まだ、恋などしませんから。」

予定調和でもあるまいに、そんな言葉が滑り出す。

恋や愛に振り回される自分が想像出来ない。
やりたいことがたくさんある。
知りたいことも山ほどある。
僕の知識欲に際限はないのだから。

だからこそ彼らとの関係を貴重に感じている。
6人仲良く、いつまでも無邪気につるんでいたい。
もしかすると幼稚きわまりないワガママなのかも知れないが、今はこのままが一番いい。
居心地の良い、優しい関係のままで。

「恋、しないの?」

「…………当分は、ね。」

こんな話を悠理としているだなんて。
頭の片隅で明確な違和感が擡げたが、僕は彼女の背中を再び軽く叩き、先を促した。


小さな島を一周するとおよそ20キロ。
電車と船を乗り継いで向かった頃は雲一つない晴天だったが、次第に風向きが変わり始め、日が落ちると同時、雨が降ってきた。

「あぁ、この調子だと明日も雨かもしれないねぇ。」

民宿の女将は、心底申し訳なさそうに船盛りをテーブルに置く。
美童は最終の船で来るらしく、僕たち三人は六人前の料理を前にし、グラスを合わせた。
もちろん民宿の料理は豪勢でボリュームもある。
だがこちらには胃に穴が開いたかのような怪物が控えている為、心配ご無用。
案の定、皿は全て空となった。

「魅録、内風呂にでもいきますか。」

「よしきた。この調子だと海辺の温泉は明日も無理だろうな。」

「あたいもいく!」

「いいんですか?混浴ですよ?」

「ええ!?まじ?」

「冗談です。浸かる前に氷水を飲んで、少しは酔いをさますように。」

素直に頷く悠理は「その前にトイレ!」と駆けていく。
一升近くの酒を飲んでいても、軸がぶれないのはさすがだ。



内風呂とはいえ半露天。
すっかり日が落ちた為、波の音だけが暗い海を木霊する。
とはいえ、ところどころに昔ながらのランプがぶら下がっていて、雰囲気はなかなかのものだ。

湯船に身を沈め、すっかり寛いでいるところへ、魅録が頼んだのか銚子が二本、御盆の上に乗ってやって来た。

「サービスですよ!」

「ありがとうございます。」

貸しきりの風呂を男二人でのんびり出来るのは贅沢だ。

「いい温泉ですね。」

「あぁ。野梨子と可憐が喜んだろうにな。」

「仕方ありませんよ。」

お猪口を差し出し、酒を注ぐ。

「おまえさ…………」

「おっと零れる。」

「マジで結婚すんのか?」

突如ふられた話題は決して楽しいものではないため、僕は曖昧に笑い、その場をやり過ごそうとした。

「…………さぁ、どうでしょうねぇ。」

「相手は結構本気なんだろ?」

「本気になられるほど顔を合わせてませんよ。」

「茶化すなよ。あんくらいの家柄なら、冗談なんかで見合い話を持ちかけてこねーよ。標的を一撃必殺で落とすつもりだぜ?」

━━━━確かに。
そういえば彼も貴族の血筋を継ぐ者だった。
ちっともらしくは見えないが。

「僕は種馬になるつもりはありません。もちろんそれなりにメリットがあるのなら一考しますが、残念な事に今のところ見当たりませんね。」

「…………悠理ん時みたいに、か?」

ズキン……

不意打ちだった。
酒が不味くなるような苦い過去。
慢心した自分を痛切に思い知らされたあの事件。

「俺は別に責めてるわけじゃねぇ。おまえさんなりの結婚感ってのもあるんだろうし、それに大病院の息子ってのは、色んなしがらみがあって当然だろ?純粋に愛だの恋だので結婚なんか出来ねぇよな。」

愛も恋もまだ必要ない。

僕の心を読み取ったかのような台詞は、魅録にしか口に出せないだろう。

「全く…………。恋よりも楽しいことは山ほどあるんですけどねぇ。」

そんなぼやきに、猪口をくいっとあおった彼は笑う。

「それはあれだ。あんたが恋を知らないからさ。」

「魅録は知っていると?」

「………ま、かじった程度だけどな。」

見た目よりも純情な青年は、こちらの猪口になみなみと酒を注ぎ始める。
これ以上、舌を滑らかにさせて一体何を聞き出すつもりやら。

「あんたには………是非とも恋に落ちてほしいもんだね。そん時、どんな顔を見せてくれるか楽しみだ。」

「期待には応えられませんよ。」

「さぁ、それはどうかな?俺はあんたが一番溺れるタイプだと思ってるんだがな。」

彼は含み笑いを見せ、二本目の銚子に手を伸ばす。
不愉快に感じないのは「魅録」だからだ。
他の男だとこうはいかない。

冷たい雨風が頬を撫で、上手い具合に酔いが醒める中、竹作りの塀の向こうから声が聞こえてきた。

「清四郎、魅録!なんだよ、おまえら酒飲んでんの?」

それはもちろん悠理の声。
さぞ羨ましいのか、抗議するよう水面をパシャパシャ叩いている。

「ならこっち来るか?おまえならそのくらいの塀、よじ登れるだろ?」

「魅録!?」

「そうそう!バスタオルで貧相な身体、隠してこいよ!」

何を言い出すんだ!?━━━と驚いている内に、彼女は猿のような身軽さで塀を登り、スタンと男湯に下り立った。

薄手のバスタオルは身体の輪郭を浮き上がらせる。
スレンダーといった褒め言葉が似合う薄い身体。
しかし湯に浸かっていたせいか、胸の尖りがタオル越しに主張している。
慌てて魅録を振り向くが、彼は気づいた様子もない。
僕が意識し過ぎなのか?

「わーい!日本酒だぁ!」

ドプンと湯に足を浸けた悠理が、子供のようにはしゃぎ、近付いてくる。
波立つ水面から慌てて御盆を持ち上げ、悠理を「こら」と叱った。

熱に染まった桃色の肌が、
湯に濡れた後ろ髪が、
酔いに潤んだ大きな瞳が、
彼女を女だと、強く認識させる。

「お猪口貸してくれ。」

「ほらよ。」

そう言って手酌で飲み始める悠理を、僕は妙な緊張感と共に見つめていた。
またしても違和感が頭を掠める。
それは前回よりも強く、根深く、脳細胞を支配した。

「美童、まだかなぁ?」

「あと30分ほどで着くだろ。」

「揃ったらさ、皆でトランプしよーよ!」

「トランプ~?んなもん持ってきたのか?」

他愛ない会話が耳をすり抜け、彼女の桃色の肌にばかり意識が向かう。
驚くほど水を弾く、滑らかな質感。
浮き上がった形良い鎖骨に溜まる湯を存分に啜りたい、などと不埒な考えに至ってしまう。

(欲求不満、ですかね。)

悠理に‘女’を感じるなんて、あってはならないことだ。
ここでこうして肩を並べていることは、野梨子や可憐にとって信じられない行為だろう。
魅録とて相手が可憐達ならば、絶対に誘わなかったはずだ。

雨足が強くなる。
風にのって頬を打つ強い雨が、冷静さを取り戻してくれる。

「そろそろ上がりますよ。美童を出迎えなくては。」

「あ、そんじゃ、あたいも!」

「お前はもう少し湯に浸かってろ!」

「ふえ?」

「あ………いや、せっかくの貸しきりですから、のんびりとしていきなさい。」

立ち上がろうとした悠理を直視できる自信はなかった。
湯で張り付いたタオル越しの身体を見るには、強い覚悟が必要だ。
僕は頭にのせていた濡れタオルを広げ、湯の中で腰に巻く。

魅録と二人きりにさせても問題は起きないだろう。
彼は口で言うほど彼女を女だと意識していない。
少なくとも今の自分と居るよりは、よほど安全だ。
波立たないよう、そっと湯から立ち上がる。
一瞬だけ、見上げた悠理と視線が絡んだが、そこに何かを見出だすことはできなかった。
僕たちは友人。
男女の意識など……………皆無のはず。

「ひどい雨だったよ~!風も強くなってきたしさ~。」

ずぶ濡れで到着した美童が温泉から上がった頃、悠理はすっかり寝入ってしまっていた。
昼間は海ではしゃぎ、疲れたのだろう。
襖一枚隔てた向こうの部屋で高鼾だ。

「はぁ~くたびれた。船でこんなにもかかるって知らなかったからさぁ。」

「飯は食ってきたんだろ?」

「当然。どうせ僕の分を残しておいてくれる悠理じゃないしね。」

長い髪を一纏めに括りながら、彼は青い目を光らせた。

「折角男三人揃ったんだし、ここからはボーイズトークを楽しもうじゃないか!」

「ボーイズトークねぇ。」

「美童の恋人自慢ですか?」

「そうそう!この間知り合ったサンドラちゃん、すごく美人で気立ても良くてさぁ…………じゃない!清四郎、おまえのことだよ!!」

長い指で差されると、どうも振り払いたくなる。
僕は咳払いした後、二人に声のトーンを落とすよう注意した。
悠理の鼾は途切れ知らずだが、万が一ということもある。
あまり赤裸々に語るつもりもないが、かといって聞かれたら最後、後日、可憐と野梨子に伝わるのは必至だ。

「今回の旅は、僕を吊し上げる算段でしたか?魅録にも散々突っ込まれた後なんですがねぇ。」

「魅録が?ずるいよ、僕にも教えて!そのお見合い相手の美人と結婚する確率はどのくらいなのさ!?」

「わかりませんよ。いくら僕でもこれからのことなんて……」

「相手は美人だし?」

「顔の優劣で結婚相手を決めるほど馬鹿じゃありません。」

「え~?でも美人に越したことないでしょ?」

「そりゃ……まあ。」

「あとは相性だよね?特に夜の方の、さ。」

多くの女を渡り歩いてきた彼は、貴公子のような顔に下卑た笑みを浮かべた。

「おいおい。手を出したが最後、本決まりになっちまうぜ?」

「あのねぇ、お互いが楽しめない相手と結婚するのは不幸以外なにものでもないよ!」

「不幸かどうかはさておき、確かに考慮すべき条件かもしれませんね。」

「ヒュウ♪その通り!深い付き合いをして初めて、幸せな結婚生活が送れるんだ。大事なことだよ。」

「俺にはわかんね~な。」

同意を得てご機嫌になった美童は、そっぽを向く魅録へ缶ビールを差し出し肩を叩く。

「清四郎はこんな顔して、そこそこモテるからね。どこでどんな経験を積んでるかわかんないよ~。」

「人に自慢できるほどじゃありませんよ。」

「さぁ、どうだか…………」

RRRRRRRRRR……

怪しげな方向へ向かおうとした会話を中断するかのような呼び出し音。
画面を見れば、それは予期していなかった人物。
まだ一度しか会ったことのない「見合い相手」だった。

「ちょっと失礼。外します。」

部屋の外に出て、非常灯の点く廊下の端へと小走りに駆ける。
一つの咳払いをした後、電話に出ると、’彼女’は物静かな口調で挨拶をした。

「ごめんなさい。夜分に。」

「いえ。どうかされましたか?」

「…………あの、ご実家にお電話したら旅に出ていらっしゃると聞いて……」

「そうなんです。東京から約3時間かかる小さな島に来ています。あいにくの雨ですが…」

「こちらも小雨が降ってます。……ご友人とお出かけなんですか?」

「ええ。悪友達と。」

「楽しそうですね。ちょっと羨ましいです。」

とりとめのない会話。
しかし何かを探ろうとしているのか、声が強張っている。

「それで、用件は?」

「……菊正宗さんは…………その、私の事をどうお感じになりましたか?率直な意見を窺いたいんです。」

見た目よりもせっかちな性格なのだろう。
次の約束まで我慢出来ないと見える。
決して恋愛慣れしていない彼女のいじらしさに、少しだけ胸が疼いた。

「そうですね……非の打ち所のない女性かと。」

「それは’好ましい’という意味で?」

「他に意味がありますか?」

「あ、いえ……嬉しいです。嫌な印象を持たれていないだけでも、ホッとしました。」

そう。
悪くはない印象だった。
特筆すべきものも見当たらないが、一般的な女性に比べ、彼女は間違いなく上のランクに位置する。
所作も物腰も、全てが優雅。
たおやかな乙女など今時珍しい。
隣人の幼馴染みと並べば、値千金間違いなしだ。

「それを聞きたいが為に、わざわざ?」

「……ご迷惑でしたか?」

「いいえ。」

「良かった。それに……私、菊正宗さんのお声………………好きです。」

「それは……光栄ですな。」

「早く……お会いしたいんです。」

顔が見えないからか、随分と積極的な発言をする。
驚くべき事に、たった一度の見合いで彼女は僕に惚れ込んでしまったらしい。

(まったく……よく知りもしない男にここまで……)

思わず苦笑してしまう状況だが、かといって無碍にするわけにもいかず……

「では東京に戻ったら連絡しますよ。」

と締めくくり、電話を切った。

頬を薔薇色に染めた彼女が思い浮かんだが、それも僅かな間のこと。

振り向けば部屋の前で、熟睡していたはずの悠理がまるで亡霊かのようにこちらを見ていた。

(寝ぼけているのか?)

しかし彼女は何故か悲しげな表情を見せた後、浴衣のまま玄関へと駆け出す。

外は雨。
風も強い。

「悠理!」

僕は衝動的に後を追い掛けた。
追わざるを得なかった。

何故?逃げるように駆け出す?
何故、傷ついたように目を細めたんだ?

知りたかった。
僕が彼女について、分からないことなどあってはいけないのだ。
悠理の全てを知り尽くしていなければ、心許ない。
秘密などもってのほか。

何を隠してる?

俊足を追い掛けるのは並大抵ではないが、飛び出した先は海しかない。
海と堤防。
彼女は荒れる海目がけて走って行ったに違いなかった。

「いくら馬鹿でも風邪をひくでしょう!」

外は傘など役に立たないほどの風雨。
ようやく姿を捉えたのは、宿から5分ほど離れた場所にある、古びた漁師の小屋の前だった。
外灯がぽつんと一つあるだけの簡素な建物。

鍵がかかっているため入れないのだろう。
狭い軒下で身を竦めている。

「悠理。」

「追い掛けてくんなよ。」

ひどくつっけんどんな言い方で威嚇する。

「何故、こんなところへ?」

「わかってるくせに!!!」

「分からないから教えて欲しいんです。」

濡れた髪が、浴衣が、細い身体に張り付いて寒々しい。
潮風にさらされたままでは体温が奪われてしまうではないか。

「悠理、宿に戻って、もう一度温泉に浸からないと風邪を引きますよ。」

「あたい馬鹿だもん。風邪なんてひくもんか!」

「それは知ってます。しかしせっかくの旅先で万が一にでも体調を崩せば、元も子もないでしょう?」

濡れた肩を擦ろうと手を伸ばせば、悠理はその袖口を掴み、不安げに見上げてきた。

「せいしろ……」

「ん?」

「あたいがおまえを好きだって言ったら、どうする?」

ザザーン
荒ぶる波がテトラポットにぶつかる。
石つぶてのような横殴りの雨に頬を打たれ、小さな痛みが走る。
たとえどれだけ波と風の音に阻まれても、悠理の声だけははっきりと耳を通り抜けていった。

「あたいは…………いつまで経っても、おまえのペットでしかないのか?」

びしょびしょの髪が口に入ったまま、彼女は痛々しい表情を浮かべる。

言葉が出なかった。

悠理が………僕を好き?
そんなことあり得るのか?
いや、あり得ないだろう。

「………おまえ、やっぱ結婚すんの?あたいじゃなくて………その女、選ぶの?」

涙ではない雫が白い頬を次々と伝い、綺麗な形をした瞳は不安に縁取られている。
しかし奥底には訴えかけるような熱を感じ、僕は思わず息を呑んだ。

(ああ。こんなにも痛烈な瞳を向けてくるなんて。おまえはいつの間に成長していたんです!?)

歓喜にも似た感情に包まれ、胸がじんわりと温もりを帯びていく。

RRRRRRRRRR……

風音に負けないような電子音が響くが、袂に入れたままの電話には手を伸ばせない。
悠理の視線から目を背けたくなかった。
そのまま吸い込まれても後悔はしないと思わせる、強烈な瞳。

暫くすると音は止み、再び自然の猛威だけが二人を取り巻く。

「悠理、本気ですか?」

「何が?」

「本気で、僕を好きなんですか?」

「本気って………どういうことか分かんないよ!」

「僕を他の女に取られたくないんでしょう!?」

互いの声がヒートアップするのは、風がさらに強まったから。

「取られたくない!清四郎は一生、あたいの飼い主じゃなきゃダメなんだ!ずっとあたいの側にいなきゃダメなんだ!!他の女と結婚なんて………すんなよぉ!」

悲痛な叫びと共に飛び込んできた身体はすっかり冷え切っていた。
僕も同じように濡れているというのに、胸は発熱したかのように熱い。

「悠理………宿に戻ろう。」

しかし彼女は駄々っ子のように首を振るだけ。

「や、いやっ……!」

「僕はおまえが愛しい。だがこれが恋だと断定出来るほどの自信はないんです。」

それは本音だった。
否、本音だと思っていた。
本当はすっかり心を奪われてしまっているのに、理性を司る前頭葉が必死で抗おうとする。
むしろ邪魔だと感じるほどに。

「恋じゃなくていいから……側にいて?」

そんな彼女らしからぬ健気な台詞は、男の本能を直撃し、全てが限界を迎える。

「全く、おまえというやつは。……いつもいつも驚かされてばかりだ。」

分かった。
白旗を上げよう。
もう形になど拘らない。
どうせ僕は悠理から離れられない………離れたくないんだ。

前頭葉の叫びを無視し、一生、この可愛い獣を飼い続ける覚悟を決める。

「やはり第一印象で決まったのかもしれないな。」

記憶に残るあの日の悠理は、未だ脳裏で鮮やかさを保つ。
お人形の様に可愛く、野生猿のように乱暴な、この世でたった一人の少女。

「悠理。」

すっかり乙女の表情で見上げてくる彼女に初めて「男」として接する。
お互い、悲しいほどずぶ濡れ。
雨風に晒されながら、それでも僕は慈愛と誓約の入り混じったキスを与えた。

「清四郎……」

「一緒に居ましょう。ずっと、ね。」

「うん!!」

その晴れやかな笑顔を目にすれば、何が正解かなどすぐに分かる。
たとえどんな嵐でも、彼女さえいればそこは輝く世界となるのだ。

波瀾万丈の人生も悪くはない。
むしろ望ましいとさえ感じる。

二人で身を寄せ合い宿に戻る頃には、すっかり’見合い相手’のことなど頭から消え去っていた。