ピーピーピー
本日三度目のエラー音が鳴り響く。
有能なはずの最先端コピー機が俄に騒ぎ始め、働く人間達を苛む。
「あぁ、またなの~?」
秘書課に配属されたばかりの守屋弓子(もりやゆみこ)はがっくりと肩を落とした。
有名私大をトップで卒業し、難関の剣菱本社に就職出来たものの、半年間の厳しい研修の後に配属されたこの秘書課では、全くの役立たずとして白い目で見られる毎日。
(決して馬鹿なんかじゃないのに………)
想定外の鈍くささを露呈する弓子は、今日も先輩の容赦ない嫌味に晒されていた。
「貴女ねぇ、コピー機も満足に扱えないってどういうこと?この間はトナーを勝手に引き出してエラー。その前は三回の紙詰まりを起こしてエラー。一体何のために半年も研修期間を設けてると思ってるの?今時高校生だってもう少し上手く扱えるわよ!」
弓子より二つ年上の吾妻は、厳しい声で叱咤する。
秘書課の花と呼ばれるだけあって、彼女の容姿は見事に整っていた。
アッシュブラウンの長い髪を自慢気に揺らし、某有名ブランドのタイトなベージュのスーツをかっちり着こなす。
たった一足で、弓子のアパートの家賃が払えるほどお高いハイヒールを履き、その綺麗に描かれた眉をつり上がらせている。
女としての格を見せ付けられ、弓子は小さく身を竦めた。
たった二つしか違わないというのに…………とてもじゃないが敵いそうもない。
そんな二人の様子を見ながらも、弓子を庇おうとする者は誰一人としていなかった。
「す、すみません。」
エラー音を慌てて消そうとすればするほど空回りした行動をとる弓子。
「もう、うるさいわねぇ。」
他の先輩秘書の忌々しげな舌打ちで、更なる焦りを招く。
どれほど頑張ってもこの機械との相性は悪く、たった20部のコピーに一時間近くかかることも珍しくなかった。
「いったい何の騒ぎです?」
「副社長!」
涼しい声に見合ったクールなスーツ姿。
剣菱財閥の中枢を司る若き獅子、剣菱清四郎がゆったりとした足取りで登場する。
秘書課に隣接する彼の部屋にまで、煩わしいエラー音が届いたのだろう。
さぞ訝しい表情かと思いきや、予想に反してニコニコしている。
今年30になったばかりの清四郎は、つい先日初めての子供が生まれ、すこぶるご機嫌の様子。
笑顔の大安売りと言っても過言ではない。
部下の失態にも優しく注意するだけに留まっている。
‘あの’清四郎が、だ。
彼を深く知る者は度肝を抜かれること間違いなしであろう。
新米秘書、弓子はそんな副社長に淡い恋心を抱いていた。
それは配属されて間もなくのこと。
今日と同じようにコピー機と格闘していた弓子へ「いいから少し落ち着きなさい。」と手を差し伸べたのが清四郎だった。
50部の資料を昼までに用意しなくてはならない彼女は、泣きそうな顔で男を見上げる。
取りすがらんばかりの勢いだ。
そんな弓子に苦笑しつつも、手早くエラー音を消し、使い方を簡潔に説明し始めた清四郎へ、彼女は簡単にのぼせあがってしまう。
優しげな顔つき。(頭の中は冷酷非道)
スーツの下の逞しい身体。(殺人的強さ)
落ち着いたトーンの声。(女殺しの小技)
恋愛経験の少ない22才の小娘は、あまりにも呆気ない。
左手を見れば、キラリと光るプラチナの輪。
明らかに手の届かぬ相手と分かってはいても、若さゆえか、恋心はどんどん膨らみ続けている。
「あぁ、また守屋さんですか。」
穏やかな笑顔を見せながら、清四郎は近付く。
以前と同じエラー音は、魔法のようにあっさりと止められた。
「す、済みません!副社長。私、鈍くさくて……」
そんな焦る弓子を見て飛び出したのは、先輩秘書・吾妻だ。
「副社長、大変失礼致しました。私の教育不足です。」
そう言って潔く頭を下げる。
「このコピー機は確かに色々な機能があって面倒ですからね。彼女が覚えるまでもう少し指導してあげてください。」
優しい言葉に感動する弓子。
吾妻のチッという舌打ちは、彼が視界から完全に消えたあと、聞こえた。
「守屋さん。」
「は、はい。」
「この私が教えるからには、きっちりと覚えてもらいますからね。コピーだけが仕事じゃないんです。貴女は秘書になるためにここにいるんでしょう?」
「お、仰る通りです!」
震える弓子をハブのような眼光で睨む吾妻。
忙しく働く他の秘書達は、『コピー機壊れないかしら?』と、少々不安に感じたという。
▽
▼
▽
「ゆーみーこ!」
「みっちゃ~ん!」
ランチタイムの食堂で、弓子は同期の倫子(みちこ)に泣きつく。
研修期間中に仲良くなった彼女は総務課に配属され、日々雑用をこなしているらしい。
「私、コピーも満足にとれないから、たとえどの課に行ってもダメだわ。」
落ち込む弓子を倫子は優しく励ます。
「花の秘書課のくせに何言ってんのよ!みんながどれだけ入りたがってるか知らないわけじゃないでしょ?」
「それでも、みっちゃんと一緒がよかった。」
「あら!じゃあ副社長の顔が見れなくなるけどいいの?」
「意地悪!」
「ならおとなしく頑張りなさい。きっと直ぐ使いこなせるようになるわよ!」
親子丼を食べる倫子は一般的な美人。
弓子も悪くない顔立ちだが、それほど目立つタイプではない。
先輩である吾妻のようにメリハリの利いた顔よりも、倫子の優しげな美しさに憧れる弓子は、いつも羨望の眼差しを投げ掛けていた。
「私もみっちゃんくらい美人だったら、略奪愛とか出来たかな?」
「はぁ?」
「副社長の愛人候補、なんて無理だよねぇ。この顔じゃ…………。」
箸を止めた倫子が、声を落とし、囁く。
「あんた、本気?副社長の奥さんが誰だか知ってるわよね?」
「ここの会長の娘でしょ。知ってるわよ。でかでかと社内誌に載るくらいだもん。」
「ならめったなこと言っちゃダメよ!」
危険性を示唆する倫子を、しかし弓子は詰まらなさそうに一蹴する。
「好きなんだもん。仕方ないじゃない。毎日の辛いシゴキに耐えてるのも彼がいるからだもん。」
「ち、ちょっと、ほんとマジ止めて。誰に聞かれるか分からないから!」
慌てて親子丼を掻きこむ倫子。
これ以上は付き合いきれないと、テーブルを立ち上がる。
「みっちゃ~ん!逃げないでぇー!」
「憧れてるだけならいくらでも話に付き合ってあげたけど、本気ならダメ。私は反対。よーく考えなよね。」
そう言ってそそくさと消えていく友達を、弓子はしょぼんと見送った。
「だって、あんなカッコイイ人、欲しいと思うのは当然でしょ?」
小さな本音がしみじみ辛い。
消化できない恋を皆、どう処理しているんだろう?
弓子とて大学時代はそこそこモテた。
告白されるがまま付き合って、別れてを繰り返し、気付けば就職活動中は独りだった。
大企業に入って、自分好みの男と恋愛する!
そう決意したのは、ある程度自信があったからだ。
首席卒業の頭も、そこそこの可愛らしさも。
自分を形作る物は決して悪くないはずだと信じていた。
しかし入社して初めて理解した言葉。
‘井の中の蛙’とはまさしく自分のことだった。
秘書課に配属された弓子は先輩たちの働きぶりに目を回す。
美しく聡明な美女たち。
センスあるファッションとエスプリのきいた会話。
そんな彼女たちをメロメロにしている有能な副社長は、愛妻家と評判である。
「はぁ~あ。愛妻家かぁー。」
社内誌に載る夫人の顔は確かに美人だ。
キリッとした目元に、整った顔立ち。
羽毛を感じさせるふわふわの髪が、彼女のトレードマークであるかのよう。
家に恵まれ、容姿に恵まれ、更に夫にまで恵まれている。
弓子との大きな差は、そう簡単に縮められそうもない。
彼女は自らが抱えるストレスに気づいていなかった。
倫子が放った親身な言葉を考えることもせず、新しい生活にささやかな楽しみを求める。
「副社長は優しいもん。可能性はゼロじゃないよね。」
人は若さゆえの過ちとでも言うのだろう。
立ち上がった弓子は「午後からの仕事も頑張ろう」と気合いを入れ直し、真っ直ぐに歩き始めた。
・
・
・
━━━━あれ?もしかしてあの人・・・・
その日も一日中、吾妻にしごかれ、ヘトヘトになりながら帰宅の途につこうとした秘書課勤務の弓子。
配属されてから二ヶ月が経過した。
吾妻の宣言通り、非常に厳しい教育を受け、コピー機のエラー音も格段に減った。(まだ時々は失敗するが)
されど疲れは蓄積されるばかり。
今日の夕飯もまたコンビニ弁当だな、と考えながら溜め息を洩らす。
一人暮らしの女の’あるある事情’。
━━━━女を捨て始めている。
そんな考えに至った弓子は、忘れていた化粧直しをする為、ロビーのトイレに向かおうとした。
だが、視界の端に飛び込んできた美女の存在に思わず足を止める。
━━━━━やっぱり。‘副社長の奥さん’だ。
色素の薄い大きな目、ふわりと風を含ませた髪。
スレンダーな長身は、タイトなニットのワンピースで包まれている。
白い肌にベビーピンクは良く似合い、焦げ茶色のショートブーツも可愛かった。
━━━━━へぇ。噂より子供っぽい感じ。きっとちやほやされて育ってきたんだろうな。
あながち間違ってはいない見解だが、悠理の本性までもは流石に見えない。
見た目と中身のギャップを知る人物は、ここ剣菱本社といえども数少なく、弓子の耳に情報が飛び込んでくることはなかった。
「せぇしろ!」
跳ねるような声で夫を呼ぶ悠理を、柱の影からそろりと窺う。
興味は否応無く膨れ上がり、化粧直しのことなど頭からすっかり消え去っている。
エレベーターホールから真っ直ぐに歩いて来る清四郎は、薄手のハーフコートを羽織り、帰り支度。
心なしか足取りも軽い。
━━━━あぁ、副社長今日は初めてお顔を拝見しました!!
こき使われ荒みきった心が、ここに来てようやく潤っていく・・・はずだったのだが━━━
「悠理。迎えに来てくれたんですか?」
愛しさ満開。
彼の周囲に花が咲く。
年の割りに落ち着いた雰囲気の、どちらかと言えばクールな印象を受ける清四郎。
そんな彼が感情を解き放ち、妻へと近付く姿は、弓子に大きな衝撃を与えた。
━━━━━な、なに?あの副社長の顔。甘過ぎでしょ!
細い身体を攫さらうように抱きよせ、身長差を感じさせない馴れたキスを落とす。
まるで映画のワンシーンのような一連の動きに、弓子は目が釘付けになってしまい、これが日本人同士の夫婦なのかと疑っていると、今度は妻の方が夫の首に絡み付き、背伸びするようにキスをする。
━━━こ、こ、ここ、会社のロビーですけど!!??
確かにこの時間まで残っている社員は数少ない。
かといって、あんな大胆な行為を交わせるほどの場所ではないはず。
あまりにも大胆な行動に頭がくらくらし始めた弓子を、更なる衝撃が襲う。
「もうこんな時間か。今日は何処へ行ってたんです?」
「可憐達とクラブで踊ってた。」
「悠奈ゆうなは?」
「母ちゃんが離そうとしないんだもん。預けてきたよ。今夜は父ちゃんとメイドを連れて鎌倉の別荘に泊まるんだって。」
「はぁ……そうですか。もしかして気を遣わせてしまったかな?」
「ん?」
「僕たちが二人きりになれるように、ね。」
「あ~~、そゆことか。なら思いっきり甘えちゃおうぜ。明日は仕事休みだろ?ホテルの上で鉄板焼食べて、そのまま泊まろーよ。」
「おや、そんなにも精力をつけさせて良いんですか?おまえが困りますよ?」
「…………バカ。んなの………とっくに覚悟してらい。」
赤裸々すぎる会話は、まだ22の弓子には早かった。
副社長の色っぽい声色に、ともすれば腰が抜けてしまいそうになる。
━━━━大人の会話だぁ~!副社長、凄すぎます!!
男としての清四郎に強烈なインパクトを受けた弓子。
嫉妬するよりも大きな感動が彼女を包み込む。
これが同い年くらいの男なら上滑りするだろうが、彼ほどの貫禄があればちっとも違和感を感じない。
━━━━いいなぁ。私もあんな風に愛されたい。
きっと溜まりに溜まった疲れなど一瞬で吹き飛ぶだろう。
妻である悠理の輝きは、清四郎ほどの男に深く愛されているから。
弓子はそこで初めて、胸にチクンと棘が刺さったように感じた。
「いい覚悟です。さぁ、夜は短い。行きましょう。」
「ん。」
しっかりと腕を絡ませ消えていく二人。
その場に佇む弓子は、更なる疲労感に襲われ、ぐったりとした様子で大理石の柱に凭れ掛かった。
・
・
・
週明けの秘書課は特に忙しかった。
アメリカからやって来る取引先のCEOを出迎える為、朝早くから準備に追われる先輩秘書達。
吾妻もこの日ばかりは弓子に構ってなどいられない。
総勢10名の同僚に交じり、あれやこれやと指示する秘書課長に従い、仕事に追われている。
弓子はもちろん蚊帳の外。
まだまだ責任ある仕事を与えられない為、仕方なく小さなファイリング作業をこなしていた。
━━━━今日は副社長に会えないかな。忙しいもんね。
廊下を挟んですぐの場所にある副社長室。
そこに入室できるのは秘書課の中でも課長だけだ。
今回、CEOとの商談を含めた会議は一階下にある会議室で行われることとなっていた。
現在、社長職に就いているのは剣菱豊作。
未だ独身の彼を狙う女子社員も少なくはないが、40に差し掛かる豊作は結婚を諦めているのか、ちっとも靡かない。
それでもそこそこに女性関係を結び、決して枯れた男ではないことをアピールしていた。
「守屋さん!」
「は、はい!」
急に声をかけられ、弓子は振り向く。
吾妻だった。
「悪いけど、副社長室からこれと同じ色のファイルを会議室に持っていって頂戴。」
「ファイルですか?」
赤い帯色のファイルを指し示され、早くと急かされる。
「私は今からお茶の準備をしなきゃならないの。間違えないでね!」
「はい!!」
副社長室に入れる人間は課長だけ……
それなのにこれは降って湧いたラッキーじゃない!と弓子の心が躍る。
足早に向かった先の重厚な扉を形式通りにノックし、そっと開く。
清四郎は社長室で最終打ち合わせをしていると聞いていた。
その誰も居ない部屋は15畳ほどあり、シックな家具が立ち並ぶ。
黒革のソファは弓子ですら見聞きしたことのある、高級家具メーカーの物。
サイドテーブルにはバカラのカラフェが輝いている。
物珍しそうにそれらを眺めながら、弓子は多くの書類が置かれた棚を目指した。
「うわ~、おっきなテーブル。あそこに副社長はいつも座ってるのね。」
ファイルを手にした後、ついつい好奇心で覗いてしまうプライベート空間。
革張りの椅子の肘置きにそっと触れ、温もりの欠片を探す。
「いいな。私も椅子になりたい。」
自分でもちょっと変質的な言葉を吐いたと思ったが、恋心とはそういうものだと納得させる。
大きなデスクマットの上はきちんと整理整頓されており、彼の気性がよく表れていた。
弓子はそこに一つだけ違和感の感じる物を発見する。
オレンジ色の革で包まれたフォトフレーム。
折りたたみ式のそれが、モノトーンで統一されたそこに唯一の彩りを与えていた。
「奥さんの写真だろうな。」
ちくりと痛む胸を抱え、四角のそれに手を伸ばす。
開けば案の定、妻、悠理の写真。
子供の写真ではない。
眩しいほどの笑顔がその小さな写真立てには収められていた。
「ほんと…………愛妻家。」
悲しいほどの現実を思い知り、弓子はそれを静かに閉じる。
当初は仄かな憧れだったはずの想いが、今はもう一人前の恋心と変化し、可能であるのならば触れたい、愛を告げたい、というところまで膨らんでいた。
「告げたところで、どうなるわけでもないけどね。」
自嘲気味な呟きは真実。
弓子の胸を遠慮なく抉る。
そのささくれが彼女を次の行動へと誘ったのかもしれない。
ハンガーに掛かった、清四郎のコート。
目に留まったそれに近付くと、弓子はそっと顔を近付けた。
彼の清々しい香りが鼻を抜け、このままこのコートに包まれたい。
そんな欲求がこみ上げる。
小さな悪戯心はむくりと頭を擡げ、弓子の耳から雫の形をしたピアスを奪う。
それをコートのポケットに忍ばせた時の大きな高揚感は、彼女の荒んだ心を緩やかに満たしていった。
━━━━奥様になんて言い訳するかな?
女の愚かな策略。
悠理の性格を知らない弓子はひっそりと嗤う。
少しでも波立てばいい。
ほんの少しで良いのだ。
彼の心に生まれる隙間が欲しい。
22歳の弓子の恋心は、泥の様な重さを含みながら、更なる成長を遂げようとしていた。
「あのぅ………こちらは若奥様の物では?」
「ん?」
剣菱家の朝。
二人の主人を見送った後、メイド達は慌ただしくも速やかに、午前中の決められた仕事を始める。
隠居生活に片足を突っ込んでいる剣菱財閥会長、万作はいつものようにご自慢の畑へ。
その妻、百合子は執事五代と共に、週末行われるパーティの打ち合わせをしていた。
なんら変わらぬ清々しい朝。
けれど小さな嵐は足音を殺し、そろり忍び寄ろうとしていた。
青々とした芝生が敷かれたテラスにて。
生後三ヶ月の娘をあやしていた悠理は、恭しく声をかけてきたメイドの手に収まった透明の袋に視線を傾ける。
それは片方だけの小さなピアス。
雫型の華奢なデザインをした、金色のピアスだった。
「あたいのじゃない。どうしたんだ?これ。」
「あ…………いえ、私の勘違いだったようです。失礼致しました。」
瞬間、自らの失態に気付いたのだろう。
蒼白したメイドは慌てて立ち去ろうとする。
が、悠理は持ち前の瞬発力でその腕を掴んだ。
「何?これがどうかした?」
眼光鋭い悠理の視線は母親譲り。
新米メイドに太刀打ち出来るはずもない。
「じ、実は………若旦那様のハーフコートのポケットから………これが……」
「清四郎の?」
「てっきり若奥様の物かと………」
剣菱邸にはお抱えのクリーニング店が出入りしており、渡す前にメイドがポケットの中身をチェックする決まりとなっている。
それに倣って、新米メイドはこのピアスを見つけたのだ。
「それ貸して。あたいが預かる。」
小袋を手にした主人を不安そうに見上げるメイド。
それに気付いた悠理は「大丈夫。喧嘩なんかしないってば。」と優しく笑いかけ、安心を与える。
功を奏したのか彼女は緊張を解くと、ぎこちなく微笑んだ。
丁寧にお辞儀し、そそくさと仕事へ戻って行くメイドの後ろ姿を見送りながら、悠理は深い溜め息を吐く。
━━━━相変わらずモテてんなぁ。
この手の嫌がらせは昔からよくあることなので、最近では嫉妬に狂うことも少なくなって来ている。
けれど悠理は何故か今回、その小さな涙型のピアスを気にかけてしまった。
一旦気になり出すと、普段隠れているはずのもやもやとした感情が胸を覆い始め、直ぐにでも夫を追及したくなる。
(コートの中……か。あいつが着ている時に滑り込ませるなんて芸当は誰も出来ないし、となるとハンガーに掛かってる時だよな。だけど副社長室って限られた人間しか入れないはず………)
少ない脳みそをフル回転させ、嫌な可能性を出来るだけ振り払おうとするが、解けない疑問はどうしても残ってしまう。
こうなれば一人で考えていても埒が明かない。
こそこそと嗅ぎ回るのも主義じゃないし、正々堂々、真正面からぶつかることにする、と彼女は決めた。
「ふにゃあ~」
「お、よしよし。腹が減ったのか?」
我が子の泣き声で現実に引き戻された悠理は、ジャージのポケットにそれを突っ込むと、揺り籠から娘を抱き上げる。
「おまえのパパはモテましゅねぇ!」
わざと明るい声を出す。
久々に訪れた不安と不快感を払拭するために。
「大丈夫!あいつはおまえとあたいだけを愛してるかんな。」
安心しろ………と最後に呟いた言葉は、間違いなく自分自身に向けられたものだった。
・
・
・
その日の清四郎はとても忙しく、午前中の役員会議が一時間押したことも関係して、昼飯すら食べられない状況だった。
午後からのアポイントが六つ。
夜は夜で海外支社との電話会議が二つ入っていた。
今年38歳を迎えた秘書課長・泉金 翔子(いずみかね しょうこ)は、仕事の正確さとトラブルへの未然対応に長けた女性で、清四郎も一目を置く有能な社員だった。
頭の回転の良さもさることながら、女性らしい気遣いも出来る。
昼食を摂れなかった上司の為、食堂のスタッフに軽めのサンドウィッチとカフェオレと用意させたのも彼女の指示だ。
そんな翔子もまた、朝から大量の仕事に忙殺され、少々疲れを感じていた。
「課長、珈琲如何ですか?」
机に差し出された薔薇色のカップ。
見上げれば新米秘書、弓子の姿。
「ああ、ありがとう。」
淹れ方すらままならなかった弓子が、今や薫り高い珈琲を提供するまでに成長したことを、翔子は心から喜んだ。
「課長。私にも何か出来ることがありませんか?」
「え?」
「今日与えられた仕事はあと一時間ほどで終わる予定です。何かお手伝い出来る事があれば、一生懸命頑張りますので………」
翔子は真剣な眼差しを見せる部下の気持ちを汲んでやりたいと思ったが、いかんせん今日は慌ただし過ぎてまともな指示も出せない。
責任ある仕事は他の社員が担っているわけで……間違った指示は後々の後悔を招くだろう。
「そうね、今は特に思いつかないけれど、もしかすると夜の電話会議まで残業して貰う事になるかもしれないわ。役員が8人ほど会議に参加するから、その時にこの美味しい珈琲を提供して貰えるかしら?」
「あ、はい。」
「ひとえにお茶汲みといっても大事な仕事だから、おろそかに考えては駄目よ。」
「はい!」
弓子の清々しい返事に微笑んだ翔子は、再びシステムにログインし、仕事の続きを始めた。
部下の成長は上司にとって何よりの喜び。
そのおかげもあってか、この先の面倒な仕事も捗るような気がした翔子であった。
・
・
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夜8時に始まった電話会議は、結局深夜11時まで続いた。
今、精力を伸ばしつつある外資系企業との提携についてが主な議題で、社長をはじめ、役員達は思いつく全ての不安要素を吐き出す。
メリットデメリットの試算は堂々巡りの議論を引き出したが、結局ゴーサインを決めたのは社長、豊作であった。
今、アジアなどの新興国へ積極的に打って出ている剣菱財閥。
IT関連の充実を求める企業に出来る限りのサービスを提供し、そのネットワークを全世界へと繋げるのは大きな目標の一つでもある。
弓子は何度も会議室に出入りし、指示された飲み物を配る。
疲労の蓄積した役員達に交じりながらも、クールな表情と真っ直ぐな姿勢を保つ清四郎。
━━━━かっこいいです、副社長。
タフな姿を憧れと共に見つめながら、そっと珈琲を差し出す至福の時。
必ず、「ありがとう」と一言添えてくれる優しさも、弓子の胸をキュンキュンさせた。
会議が一段落ついた後、翔子と共に休憩室でしばし歓談する時間が取れた弓子。
二人はミルクたっぷりのカフェオレを啜りながら、今日一日の忙しさを愚痴る。
「身体がバキバキだわ。もう年ね。」
「課長、まだお若く見えますけど。」
「あら、こう見えて40前よ。今夜は念入りにパックしなきゃ、明日に差し支えるわ。」
「パック、どこのメーカーの物が良いんですか?私も最近、疲れが顔に出ちゃって………」
翔子は「おや?」という表情を作った。
「あなたまだ22でしょう?彼氏とラブラブなんじゃないの?パックなんか必要ないと思うんだけど。」
くだけた話が出来る上司は有り難い。
弓子は肩がふっと軽くなる思いがした。
いつもは遠く離れたデスクに座る課長とのガールズトーク。
自然と心が弾む。
「今、彼氏、居ないんです。………好きな人はいますけど。」
「まあ、そうだったの。守屋さんは可愛いからてっきり彼氏の一人や二人居るのかと思ってたわ。」
「か、可愛くなんかありません。秘書課の皆さんと比べられたら………私なんて………」
思わず卑屈な言葉が口から飛び出し、慌てて手で覆う。
「あのねぇ」
そんな部下を見つめながら、翔子は笑いをかみ殺したように切り出した。
「他の皆も入社したての頃は、貴女のように自信なさげにぼやいてたわ。給湯室で泣く社員は毎年居たしね。
でも仕事をきちんとこなしていく内に変わっていくのよ。自信もファッションも全て身につくようになるから、今はとにかく一生懸命頑張りなさい。」
「課長…………」
「恋愛もどんどんした方が良いわ。片想いでも両想いでも、恋は女を綺麗にしてくれるからね。」
「課長は独身でいらっしゃいますよね。恋人は………」
「ええ、いるわよ。お互い結婚という縛りに囚われたくないタイプだから、籍は入れないつもりだけどね。」
目元に刻まれた笑い皺がチャーミングな翔子を、弓子は焦がれる様に見上げる。
━━━━こんな女性になりたいな。
などという純粋な思いは、しかし今の自分には相応しくないような気がした。
「私、今の恋はきっと報われないんです。」
「………あら、どうして?」
「駄目なんです。どうしても………」
「………。」
探るような目をされても口には出せないけれど、弓子は自嘲気味に笑う。
しかし翔子は伊達に年を重ねていない。
「なるほど、ね。」と納得したように呟き、話を切り上げた。
「さ、そろそろ帰りましょう。あら、そういえば終電に間に合わないかしら。」
「いえ、駅三つ分くらい歩いて帰れますから。」
「駄目よ。年頃の女の子が………!タクシー代出してあげるから乗りなさい。」
厳しく諭す翔子の言葉に感動していると………
「うちの車で送りましょう。」
「副社長!」
「もちろん泉金さんもね。」
清四郎は帰り支度を促すと、ロビーで待つよう指示を出した。
「今日はお疲れ様でした。想像以上に長引いてしまって申し訳ない。」
「いえ、仕事ですから。それよりも副社長、お疲れなのでは?」
「美味しい珈琲のおかげで、疲れも少なくて頭がクリアなままです。助かりましたよ。」
にっこりと微笑む男を、弓子は蕩けるような目で見上げる。
━━━━副社長、LOVEです!
こうして、秘書課の二人は名輪の車に乗り込み、まずは近場の翔子が送られ、その後、弓子の番となった。
運転手が居るとはいえ、憧れの男と二人きり………
そんなシチュエーションは激しい興奮を彼女に与える。
ドキドキ
跳ねる鼓動が彼に伝わらないかと心配してしまうほど。
「最近コピー機のエラー音が無くなりましたね。」
「あ、は、はい。お陰さまで。その節は申し訳ありませんでした。」
「優秀な守屋さんが、あんな機械に手こずっている姿はなかなか面白かったですよ。」
「私、昔から機械音痴で………お恥ずかしい話、ファックスもろくに使えないんです。」
膝の上で指をもじもじと絡めながら、この恵まれた状況に感謝する弓子。
狭い空間の中、彼女を包む清四郎の香り。
そのまま抱き締められたいと願ってしまうのは、恋する乙女なら至極当然の話である。
「あ、あの………副社長。」
「なんです?」
「お、奥さまとは仲が宜しいんですか?」
充分見知っている現実を、弓子は敢えて尋ねた。
この間のピアスは今どこにあるのだろう。
奥さまに見つかった?
それとも気付かないまま?
どちらにせよ、何の反応も見せない清四郎が気になって仕方ない弓子は、そっと横目で窺う。
薄暗い車内。
流れるネオンを背景に浮かび上がる、彼の整った輪郭。
惚れ惚れしてしまう。
彼が欲しくて、つい手を伸ばしてしまいそうになる。
甘い誘惑に囚われかけた頃、清四郎はふ、と口元を緩めた。
「そうですね。仲は良いですよ。昔からずっと………」
のろけとも取れる答えに、弓子の心が項垂れる。
知っていた。
嫌と言うほど知ってはいたけれど、肯定されることはやはり辛く、自分の愚かさを呪う。
「と、当然ですよね。ご夫婦なんですから。」
慌てて口に出した言葉は上滑りし、グッと嗚咽を堪えるよう、唇を引き結ぶ。
溢れる想いを今告げることは、流石に怖い。
怖い。
怖いはずなのに…………
弓子は潤んだ瞳で清四郎を見つめ続けた。
疲れていたからかもしれないが、それを言い訳にはしたくない。
「副社長。」
清四郎もまた疲れていたのだろう。
不意に身を寄せてきた若き部下を、彼は避けることが出来なかった。
振り向いた瞬間、甘い香りが鼻を擽る。
妻とは明らかに違う香り。
唇への感触はその直後で……しっとりと押し付けられ、軽く食まれる。
驚愕に目を見開く男の顔は、弓子には見えない。
彼女の瞼は下りていたから。
あのキスシーンからずっと焦がれてきた唇を、自分の物で感じながら陶酔に浸る。
「や、止めなさい!」
確実に押し避けたはずだった。
しかし弓子の両腕は清四郎の頬を、思いの外強い力で引き寄せる。
「……!!!」
二度目のキスは彼女の足掻き。
━━━━もうどうにでもなってしまえばいい。
そんな自棄を感じさせるほど、弓子の恋心は歪に膨らんでいた。
カーテン越しの名輪には二人の姿は見えない。
夜の街に浮かぶ黒い車は、男の混乱と女の情熱を乗せながら、ただひたすら走り続けていた。