ひんやりとした肌触りを与える極上のシーツ。
垢抜けた調度品達はどれもこれも、桁外れの値段がするという。
吸い付くようなシルクのローブに身を包み、私はサイドテーブルに置かれたシャンパングラスを手に取った。
一本10万円は下らないだろう泡の宝石。
胃に入ってしまえば同じなのに、どうして彼ら”金持ち“はそんなにも大枚をはたくのだろうか………。
所詮、貧民育ちの私には理解できないのかもしれない。
たとえどれほど着飾っても、煌びやかな対岸までは果てしなく遠い。
「どうしたんだ?」
低く嗄れた声と手の甲にある深い皺は、否が応でも年齢を感じさせる。
来年還暦を迎えるという彼の香りは、嗅いだことのない田舎臭さを感じさせた。
元々は四国出身だという。
上京して大きな花を咲かせるまで、相当な苦労をしたらしいが、私には全く興味のないことだ。
「この部屋、一泊おいくらなんです?」
「ははは。そんなことが気になるのか。そうだな………君の給料二ヶ月分、といったところかな。」
私の全てを知りながらも、私の本来の目的を知らない男。
“彼”━━━上野将吾の父親であるこの男は、彼よりもずっと俗物的で、不思議と側にいて居心地が良かった。
「そんなことより………一緒に居られる時間はそう長くはないんだ。もっと楽しもうじゃないか。」
息子に輪をかけた助平。
年の割にしつこく、体力もありねちっこい。
割り開かれた白い脚に失った若さを感じるのか、この男はやたらそこへの愛撫を施してくる。
次第に中心へと移動し、長い舌とかさついた唇で執拗に吸われ、まるでオアシスの水を飲み干す勢いで啜り取られる。
そんな男の二の腕のたるんだ皮膚を見れば、目頭が熱くなるほどの嫌悪感を抱くも、クリーム色の天井を眺めていればやがてどうでもよくなる。
あのパーティで────
私はまた…………“彼”への想いを自覚させられた。
喉がひりつくほどの恋情を甦らされた。
彼を欲する野望に火を点された。
わかっているのに。
あの人がこちらを向くことはないとわかっているのに。
微かな望みを繋いでおきたいと願う自分の愚かさを呪いたくなる。
どうしてこんなにも“あの人”じゃなきゃだめなんだろう。
何度も何度も忘れようとしたのに、心はいとも簡単に燃え始めてしまう。
冷え固まったはずの核に燃料を投下されたかのように。
愛撫に反して本番は短い。
老人が果て……やがて軽い鼾が聞こえ始める。
汚らしい手垢がついた身体をシャワーで清めると、夜景広がる大きな窓に向き合い、裸のまま大都会を見下ろした。
────私はまだ魅力的だろうか?
若々しさは保たれていると信じたい。
無駄な肉もつけていないし、自己流ながらも肌の手入れに気を配っている。
万が一彼の目に映ったとき、幻滅されるような体ではダメだ。
無論、この老人に捧げるためではない。
“あの人”が欲しい。
一夜だけでもいい。
彼の瞳の中に映り、肌を重ねたい。
きっと、それがどんなにも激しく醜いものだろうと、私なら受け入れられる。
たとえ暴力的で愛のない行為だとしても、彼が与える全てが悦びに変わると信じているから。
温くなったシャンパンを飲み干し、私は脱ぎ捨ててあった下着とワンピースを拾った。
この老人と朝を迎えるなんて愚の骨頂。
それこそ加齢臭が移りそうだ。
不快な記憶は自宅のベッドであの人を想いながら消し去ってしまおう。
サイドテーブルに走り書きを残し、部屋を出る。
深夜のホテルに漂う雰囲気は私にとってどこかしら快適だ。
まるで仕事を終えたコールガールのように、軽やかな足取りでエレベーターホールへ向かう。
そう。
’彼女たち’と私、何ら変わりはない。
唯一、無謀な夢を抱いていること意外は………何も。
翌朝。
短いながらも熟睡した所為か、目覚めは快適だった。
シャワーを浴び、髪を整え、職場へと向かう。
同僚たちは週末の予定に浮き足立っていたが、私はいつも通りホットコーヒーを注ぎ、仕事前の気合いを入れた。
「ねぇ!そういえば今度、お向かいのホテルで盛大なパーティが開かれるんですって。政治家や芸能人もたくさん招かれるから、そりゃもう警備が大変なんじゃない?」
睫毛の形を整えながら、彼女は得意げに語る。
どうやらそのパーティーは数百人規模のお客が招待されていて、名の知れた著名人も多く含まれているらしい。
金に困ることのない上流階級の人々。
きっと私たちが目にしたことのないワインを開け、密な会話を楽しげに交わすことだろう。
ふと、ほんの少しだけ胸が騒ぐ。
もしかしたら、と期待してしまう馬鹿な女。
だってあの人はそんな場所にこそ相応しい。
日本を代表するセレブの一人。
きっと………いや当然、招待されているはずだ。
その日の内に私は上野将吾の父、上野勝正に連絡を取った。
滅多に出さない甘い声で強請れば、パーティーの為に好きなものを好きなように買えと言われ、その代わり、ほんの少しだけ変態チックなプレイを要求された。
ま、そんなことはどうでもいい。
とるに足らない条件だ。
私はまずエステと美容室に予約を入れ、当日の衣装をどのブランドで揃えるか、頭を捻らせた。
雑誌を捲りながら、淡く愉しい夢を見る。
モデルたちの澄ました顔と抜群のスタイルには少々苦々しく思ったけれど、そんな事より目先の欲望に心が躍る。
確実に“あの人”に会える。
何故ならリスクを承知で、わざわざ確かめたのだから。
老獪な男はようやく何もかも理解したように、黙って頷いてみせた。
今度こそチャンスをものにしてみせよう。
もう、これしか手はない。
胸の中に転がる小さな結晶を溶かすためには、これしか━━━━
私は結局、五年前と何も変わっていないのだろう。
むしろあの時よりもずっと欲深い人間になってしまった。
小さく押し込めたはずの想いが重みを増し、一生に一度の恋を不純なものへと近付けていく。
美しいはずの恋。
自分でも何故ここまで固執するかわからなくなってきた。
でも別のものへと変わるその前に、昇華させなくてはならない。
どんな汚らしい手を使っても………必ず。
結局、私が選んだドレスは店のウィンドウに並んでいたブルーグレーのカクテルドレス。
昔の男にふくらはぎの形が良いと褒められたことを思い出し、敢えて五分丈にした。
アクセサリーもパンプスも自分の目で確かめ、決めた。
背中が割り開かれたデザインのため、念入りに磨いてもらわなくてはならない。
彼の指が触れるかもしれないと考えただけで、恍惚とした幸せに身を浸すことが出来た。
そう。
きっと、私は狂っている。
もはやと情念しか言いようのない素の欲望。
彼の顔を思い出し、声を反芻し、虚しさ漂うしみったれた夜を過ごす。
こんな毎日はうんざりだ。
私はもう、自分を抑えることを諦めるしかなかった。
パーティ会場は職場の目と鼻の先。
都内でも指折りの高級ホテルで、つい先日にはアメリカの有名DJが家族連れで一週間滞在したという噂が流れていた。
どうせスイートルームでも貸しきったんだろう。
一泊200万近くもする部屋を簡単に。
私はというと━━━━
エステに通うようになってから、付け焼き刃なりに肌のコンディションは良くなってきていて、むくみに嘆いていた顔も少しはマシになった。
たった3回の施術でひと月分の給料が飛んでいくほどの店なのだから、そのくらいの効果を期待してもバチは当たらないと思う。
私のパトロン兼情夫は、磨かれ光る愛人の肌を、ことのほか嬉しそうに舐め回した。
まるで瑞々しい桃にしゃぶりつくよう、ねっとりといやらしく。
「………剣菱の婿養子は一筋縄ではいかんだろう?」
情事の後、男はサイドテーブルのブランデーを飲み干し、深く溜息を吐いた。
全く興味がないのかと思いきや、意外な問いかけ。
私が答えを考えあぐねていると、「あの家族、いや一族は………あまりにも規格外だから、我々には到底理解出来んよ。」と独り言のように呟いた。
剣菱財閥が巻き起こす突拍子もないニュースはよく耳にしている。
が、それはあの妻やその両親の話であって、有能な彼はあくまで理性的で堅実で、彼らの輪から外れているように思う。
そのくせ女を簡単に虜にしてしまう色男。
だが美しい妻を愛している姿は理想の夫として評判が高く、どの週刊誌でも悪い噂一つ流れなかった。
「…………彼に惚れているのか?」
窺う男の目には僅かな嫉妬、そして諦めが見て取れる。
軽く肯けば、「バカな女だ。」と哀れむように首を振った。
そんなこと、誰に言われなくとも、自分が一番よくわかっている。
愚か者が辿り着く未来すら、この頭の中で容易に想像出来るのだから。
「チャンスをやろう。一度きりだがな。剣菱を敵に回すことはさすがに出来ん。だから…………」
そう言って少し肩を落とした男は、私に小さなアイテムを授けた。
まるで“シンデレラ”に登場する魔法使いのように。
「後悔せぬ選択を。………相当な覚悟が無ければ、おまえの身も破滅するぞ。」
手の中に握らされたのは一粒の妖しい薬。
それはどんな男でもたちまち性欲に狂わされるという、中東で作られた精力剤だった。
続く・・・・