砂漠の王は何を求めるか?

二人が香港から帰国して二ヶ月が経ったその頃。
サイードとの偶然の再会も記憶から薄れ始めていた悠理は、母・百合子に連れられ、とある団体が行う国際親善パーティに出席していた。

いつもなら夫婦仲良く参加するそれも、万作が畑仕事でぎっくり腰を患った為、断念。
更に豊作は清四郎を付き従え、ニューヨークへと旅立っている。
アメリカの企業団体が主催するチャリティイベントに呼び出されたからだ。
多くの有名な投資家が集まるこのイベントは、剣菱の顔を広く売る重要な機会でもある。
大学卒業後、経営に直接携わって行く清四郎にとっても、顔を大きく広げる為の大切な場であった。

となると、百合子は娘に白羽の矢を立てるしかない。
いつも通り、二人して派手な衣装に身を包み、パーティ会場へと赴いた。

約300人もの招待客が集まるホテル会場。
国際色豊かなパーティだけに、出てくる食事もなかなかに豪勢なものである。
立食形式、食べ放題。
悠理の瞳が爛々と輝く。
目の覚めるようなミニ丈の黄色いドレスに水色のボレロを羽織った彼女は、足元のパンプスを見て、にへらと笑った。

それは一週間前。
清四郎と共に、剣菱が出資した商業施設に出掛けた時のことだ。
デート気分でウキウキしていた悠理。
特にここ一ヶ月多忙を極めていた清四郎とのお出掛けは、いやがうえにも気持ちが盛り上がる。
しかしそんな高いテンションも一気に落ち込む出来事が…………。
通路から突如飛び出してきた子供。
その手には大きなソフトクリーム。

ビシャ!

それはお気に入りのサンダルを真っ白に塗り変えた。

「ギャッ!」

青ざめる少年。

「ご、ごめんなさい。」

買ったばかりのソフトクリームを失ったショックも大きかったのだろう。
涙目で震え始める。

「あーーーーもう、いいよ。ほら、これで、もう一個買えるだろ。」

悠理は小銭を渡して少年を追っ払う。
いたいけな子供を怒る気にはなれなかった。
ベトベトのサンダルを見下ろし苦笑いしていると、清四郎は直ぐ様、通路の真ん中に置かれたベンチに悠理を座らせた。

「ここで待っていなさい。」

五分も経たずして現れた彼の手には、ブルーのパンプスと濡れたハンカチ。
多くの人前で躊躇なく膝を折ると、甲斐甲斐しくも妻の美しい足からサンダルを脱がせ、丁寧に拭い始めた。
それにはさすがに恥ずかしさがこみ上げる。

「じ、自分で出来るってば!」

「綺麗に拭かなくてはべたつきが残りますよ。折角のデートで足元が不快なのは嫌でしょう?」

「そりゃそうだけど…………」

ごもっともな意見に、もごもごと引き下がる。
しかし……
ふくらはぎから足首、そして指の間までをも念入りにハンカチを滑らせる夫の手が、どことなく卑猥に感じ始め、最後にはとうとう顔を真っ赤にさせてしまった。
このまま、ベッドに押し倒されそうな感覚に陥る。
だが彼はそんな色めいた雰囲気を全く感じさせないまま、綺麗になった足にパンプスを履かせると、紙袋に汚れたサンダルを突っ込み立ち上がる。

「さぁ、立って。履き心地はどうです?」

「あ、うん。」

清四郎が選んだ靴は、誂えたかのようにピッタリだった。

「ちょうどいい。」

「よかった。」

ふ、と優しげな笑みを溢す夫に、悠理の心と体は瞬く間に火照り始め、その後の買い物は当然キャンセル。
乗ってきた車の中で夫を激しく求める、という大胆な行為に移ってしまった。
もちろん清四郎も自分以上に興奮してくれていたようだが━━━━

そんな思い出の靴を見つめ、だらしなく頬を緩めていた彼女の背後から、一人の男が声をかける。

「ユウリ。これまた奇遇ですね。」

流暢な日本語。
ビロードのように滑らかな甘い声。
振り向かずとも判る、砂漠の王。

「さ、サイード。」

ぎこちなく首を回した悠理に、彼は恭しくお辞儀した。
マカオでは見られなかった腰の低さで。

サイードは母国の正装ではなく、ブラックタキシードで現れた。
瞳と同じ色のネクタイに、一粒石のダイヤのタイピンは目が眩みそうなほどでかい。
漆黒の髪は風を纏い、ふわりと揺れる。
その隙間から見える耳元には、煌めくゴールドのピアス。
大人の色気を全開にしたサイードは、まるで以前とは別人のようだ。
ストイックさの欠片も見当たらなかった。

「少し見ない内に、また美しくなられましたね。ドレスもとても良く似合っている。」

お世辞までもが滑り出す口に、悠理は目をパチクリさせる。

「な、なんでここ(日本)に?」

「このパーティの主催者はうちの関連グループですから。」

事も無げに言われ、果たしてそうだったか?と首を傾げる。

「つい二日ほど前、傘下になったばかりですけどね。公式発表はこれからです。」

「へぇ、そなんだ。」

清四郎なら即座に怪しむところだが、お馬鹿な悠理はその言葉を鵜呑みにし、納得してしまう。

「セイシロウは見当たらないようですが?」

「今日は母ちゃんと来たんだ。あいつは今ニューヨーク。」

言って、どこぞの社長と話し込む百合子を指差す。

「なるほど。では、僭越ながら私にエスコートさせていただけませんか?」

「え、エスコート!?んなもん要らないって。あたい飯食うだけだし。」

慌てて手を振る悠理にサイードは一歩近付くと、内緒話をするよう声をひそめた。

「正直言うと、先程から女性からの誘いが煩わしくてね。ユウリほど美しい女性が側に居れば諦めてくれるかと思いまして・・・。それとも、前回の事で懲りましたか?」

サイードの瞳が探るように光る。
明らかに挑発的な台詞だった。
悠理は即座に首を横に振ったが、それでもエスコートは要らないと突っぱねる。

「一緒に飯食うくらいなら、別にいいけど?」

「助かります。」

サイードはにっこり微笑むと、悠理の背中に軽く手を添えた。
あくまでも軽く、そっと……………。

「楽しい夜になりそうですね。」

小さすぎる彼の声は喧噪に掻き消され、悠理の耳には届かない。
そして彼の手によってシャンパングラスに入れられた一粒の怪しげな薬も、食い意地の張った彼女の目には届かなかった。




「ん……………っ、いてっ、あり、二日酔い?」

ひんやりとしたシーツを捲り、起き上がった悠理は、頭痛のひどさに呻き出す。

「いててて…………あたい、そんなに飲んだっけ?」

「中和剤を飲めば、直ぐに楽になりますよ。」

横から差し出されたコップと薬を、何の疑問もなく手に取ると一気に喉へと流し込んだ。
ひんやりと冷たい水に潤され、ようやく頭が覚醒へと向かう。

━━━━━あれ?ここ、どこ?

見慣れぬ部屋。
シルク地のシーツ。
足元に脱ぎ捨てられた黄色いドレス。
嗅ぎ慣れぬエキゾチックな甘い香りは、間違いなくイランイランだ。

悠理が恐る恐る振り向けば、そこにはサイードの姿が。
褐色の肌に真っ白なバスローブを軽く羽織り、どこをどう見ても下半身には下着が見当たらない。

「ぎ、ぎゃっ!!!さ、さ、さ、サイード!なんでここに!?」

「ここは私の部屋ですからね。」

「え?うそ!?」

悠理はそこで初めて、自分もまた素っ裸であることに気付いた。
慌ててシーツを引き寄せようとするが、すかさずその手をサイードに掴み取られてしまう。

「恥ずかしがる必要はないでしょう?もう、見知った仲なんですから。」

「ど、どういう意味だ!!」

「三年前に見たユウリの裸体はこの目に焼き付いていますよ。そして、夕べの貴女も、ね。身体だけじゃない。声も、吐息も、可愛らしい歯形さえ私の身体に刻み込まれているんですから。」

そう言って見せられた肩には、確かにくっきりと生々しい傷痕が残っていた。

━━━━━うそ、うそ、うそだ!!!!!

「あ、あたい……………」

唖然とする悠理にサイードは蕩けるような声で誘う。

「セイシロウにはもちろん内緒にしましょう。その代わり…………」

そして脱力した身体を易々と押し倒し、その肌をしっかり密着させると、小さく愛らしい耳元に唇をギリギリまで寄せた。

「私が日本に滞在している間、この身体でたっぷりと楽しませてもらいますよ。」

それは紛れもない悪魔の囁き。
身震いする悠理は目を大きく瞠る。

「私はこの日をずっと待ち望んでいたのかもしれない。」

残酷な笑みを浮かべる男。
これこそが彼の本性だと、彼女は知る。
剥ぎ取られたいくつもの仮面が闇に漂う中、この顔こそが本物の彼なのだと。

「サイード………おまえ………」

暗転する世界はまるで地獄の一丁目。

カタカタと震え続ける子羊を、サイードは満足そうに見つめ続けていた。