砂漠の王が憂いに惑う時

それは偶然が生み出した再会であった。

結婚丸三年の祝いを香港で過ごそうとやって来た清四郎と悠理。
万作ご自慢の別荘と迷った挙げ句、ペニンシュラのスイートを五泊貸し切り、あちらこちらで食べまくる。
まさに悠理の独断場。
年を重ねても彼女の食欲は一向に変わらない。

四月といえども香港はすっかり蒸し暑い。
食べ物の匂いが混在し、慣れない観光客は気分を悪くすることもある。
そんな中でも、彼女はもちろん屋台の端から端まで食べ尽くす勢いだったが、さすがに飽きてきたのか、新たな刺激を求め、夫へと新たな提案を持ちかけた。

「清四郎。明日カジノ行こうよ。」

「ふむ。マカオですな。」

「あたり!」

清四郎も毎日の食べ歩きに嫌気がさしていたのだろう。
可愛くお強請りする妻からのキス一つで、手際よくフェリーのチケットを二枚押さえた。

「へへ。今回は不思議と負ける気がしないんだよなぁ。」

「調子に乗りすぎないように。前回のモナコでは結構やられましたよ?」

「あ、あれは………体調が悪かったのと、フランス語がよく分かんなかったから。」

「英語もイマイチでしょうに。」

「ち、ちょっとくらい喋れるようになったぞ!」

「この間、観光客にホテルへの道を聞かれた時、自信満々に公衆トイレを案内したのは誰でしたっけ?」

「うっ!……もう~!せぇしろの意地悪。」

バカバカとじゃれるよう胸板を叩く悠理をあっさり腕の中に閉じ込め、清四郎は時計をちらりと見つめた。
針は22時を回ったところ。
少し早いようにも感じるが、明日の事を考えれば悪くない時間だ。

「そろそろベッドへ行きましょうか。」

「あ、うん。」

悠理を軽々と抱え上げ歩き出す清四郎。
その体躯は三年前よりも数段逞しく、今はもう彼女に勝てる要素は見当たらない。
知力、体力、精神力。
どれを取っても彼の方が優れていた。
最近の悠理は贔屓目抜きで、清四郎がこの世で一番強いのではないかと感じている。

ここ数年。
週に三回、鍛練の日を設けて来た夫。
どれほど大学生活が忙しくとも、欠かさず寺へと通う。
その修行はなかなかに過酷なものだと悠理も聞いていたが、不満ひとつ溢さない清四郎は余程大きな何かを覚悟して挑んでいるのだろう。
真摯な態度で和尚と向かい合い、彼の教えを請うていた。

清四郎のプライドを刺激したのはもちろんサイードだ。
あれから三年。
三人は顔を合わせることもなかった。
ハサナルが他界したときも、盛大な葬儀には万作が出向き、花を手向けた。
不思議がる両親には、もちろん何も告げていない。
告げれば最後、百合子の怒りは軽々と臨界点を突破することだろう。

可愛いナディヤと戯れながらも、悠理はあの忌まわしい夜の事を時々思い出し、苦しんだ。
香りの記憶が強い所為か、ムスクへの嫌悪感は半端ではない。
しかし半年が経つ頃、夫婦の寝室に焚かれたそれは全く同じ香りのものだった。
悠理は恐怖する。
そして夫を詰る。

あの時、こっそり持ち帰った未使用の’香’を分析し、その動物の特定までをも成し遂げた清四郎は、悠理のトラウマをなんとか払拭出来ないかと考えていた。
結局辿り着いた答えは、記憶の上書き。
ハサナルの暴力的な行為を清四郎の愛で塗り替え、記憶させることでそれは克服出来るだろう。
そう結論付けたのだ。
彼の思惑通り、悠理はあの香りの中で蕩けるような表情を見せ、夫に身を任せた。
中毒性のある物質が含まれているので二度は使わない。
互いに激しい夜だった。

(あんな物に頼らなくても、妻を充分に可愛がってやれる。)

そんな自信を持ち続ける清四郎。
この3年間、二人は密度の濃い夜を過ごしてきた。
そして今はもう、悠理の記憶にハサナルの暴力は存在しない。
時々疼く理由は、記憶の中にある野獣となった夫の激しさによるもので……
媚薬と称されるお香の効き目は確かな物だと感じていた。



「こら、何を考えているんです?」

すっかり衣服を脱ぎ去り、逞しくもしなやかな身体を見せつける夫に、悠理の耳朶は甘噛みされる。

「あ……ん、ごめんってば。ちょっと昔のこと思い出してたんだよ。」

「昔?」

「ほら、あのお香使った時、清四郎ってばまるで別人だったじゃん?」

回転の速い脳は何を差しているかを瞬時に読み取り、データを引っ張り出す。

「ああ。自分がどうだったかなんて断片的な記憶しか残っていませんね。悠理の痴態だけは全て目に焼き付いているんですが……」

「え、そなの?覚えてない?」

「おまえも自分の事は覚えていないでしょう?どれほど淫らな姿を僕に見せつけていたかなんて……」

「お、覚えてない!!」

恥ずかしさのあまり背けられた妻の顔を、夫は引き戻す。

「あんな物が無くても、おまえが望む通りの獣になれますよ……何なら今から試してみますか?」

ゴクリと期待を飲み込んだ悠理の目に、明らかな欲情の炎を読み取った夫は嬉しそうに微笑んだ。

「……やらしい女だ。」

「…………好き?」

「ええ、大好きです。」

理性という名のベールを剥ぎ取っていく清四郎を見て、悠理の背中にゾクゾクとした官能が駆け上る。
どちらかと言えば優麗な顔立ちの夫が、どんどんと男っぽさを増していく様は彼女の中の’女’を強く刺激した。

恍惚と潤む、のぼせた瞳。
開かれた唇からは甘い吐息が零れ始める。
その婀娜あだめく華の香りから、男の理性は最後の一枚までもが奪われてしまう。

「期待していなさい。」

獣となった夫は想像していた以上の猛々しさで悠理を翻弄した。
現実を忘れてしまうような目眩く夜。
互いを結ぶ愛があるからこそ溺れることが出来る、深い海。
二人は重なりあったまま、熱く火照る夜を明かした。



━━━━━ハサナル!!?

その横顔を見た時、悠理の心臓は鷲掴みにされた。
高い鼻梁、シャープな顎、褐色の肌に黒い髪。
服装こそ違えど、その端正な顔立ちを忘れるわけもない。
しかし悠理の視線に気付き、こちらを振り向いた彼の瞳は期待した琥珀色などではなかった。
深い深い深海の青。

「サ、サイード…………」

「ユウリ、ですか。」

ルーレットを挟んで二人はしばらく見つめ合ったまま動けない。
あれから三年も経つ。
大人の魅力を身に付けた男は、穏やかな表情で悠理の前に現れた。
あまりにもハサナルに似た姿で━━━。

シャンパングラスを置くサイードの横へ、金髪の女がそっと寄り添う。
赤い唇と赤い爪。
美しいデコルテを見せつけるような黒のドレスは、セクシーさを通り越して淫らな感じがした。

「なんでここに?」

ディーラーとプレイヤーは合わせて六人。
お互い近い距離では無かったが、悠理は話しかける。

「何故………と問われましても、ここは私の所有するカジノですからね。たまに視察を兼ねて遊びに来ているんですよ。」

チップをディーラーの前に置いた二人は一旦会話を止め、賭けに集中する。
ここからは勝負。
ディーラーの手が滑らかに動き、専用のチップが並べられる。

結果━━━

悠理は勝利した。
同様、サイードも多くの勝ちを得た。

二人は次の勝負から下りると、酒を求めカウンターを目指す。
同行しようとした金髪の女は彼の手で制されたが。

「久々だな。」

「三年ぶりですね。貴女はずいぶんお綺麗になられた。そう言えばナディヤは元気にしていますか?」

「あぁ、元気だよ。ちょっと野生化してきてるけど。サイードは…………ハサナルに似てきたね。」

一旦息を継いで指摘すると、サイードはくすりと笑った。

「よく言われるんです。彼を追い求めるあまり、いつしか容貌までも似せるようになってしまったのかもしれない。・・・・貴女にとっては不愉快な顔かもしれないが。」

自虐的な言葉に悠理は首を振る。
確かに良い思い出ではないけれど、死人に鞭打つような台詞は吐けなかった。

「そう言えば、セイシロウの姿が見えませんが、まさか一人でここへ?」

「あいつはあっちのカードで遊んでるよ。どうせ爆勝ちしてると思うけど。」

「彼にとってはゲームも真剣勝負でしょうからね。やれやれ。ほどほどにしてもらわないとこっちが困る。」

冗談めかして笑う彼も、どこかハサナルに似ている。
俄に鼓動が逸り始めた悠理は、差し出されたカルーアミルクを一気に飲み干した。

「そういや、羽振りいいんだって?日本でも有名だぞ、あんたんとこのグループ。」

「ええ。順調に手広くやっています。剣菱ともホテル事業で提携したいと思ってますが、お父上は珍しく慎重な様子でなかなか実現しない。」

「あぁ…………そだな。」

実際慎重な態度を見せているのは、彼に進言する清四郎だった。
三年前の禍根が邪魔しているのだろう。
接点は出来るだけ持ちたくないと考えていた。
サイードはもちろんそれを見抜いていたが、事情が事情なだけに強気には出られない。
しかし、今回のこの偶然は是非ともモノにしなくては………そう思い至っていた。

「あたいは仕事のこと、よくわかんないけど、清四郎なら………」

「ユウリ。」

不意に手首を掴まれ、サイードはそこに顔を寄せる。あまりにも素早い動きだったので悠理は目を見開くだけ。

「な、なに!?」

「良い香りがしますね。これは香水?」

「あ………これ?えと、友達に作ってもらった練り香水だよ。ハンドクリームにもなるし便利なんだ。」

「シンプルな成分ですね。ホホバオイルと……これは柚子か?」

「アタリ。あんたも鼻が利くなぁ。清四郎みたい。」

「知りたいことはすべて知る。これもハサナルを見倣っているんですよ。」

離された手首を擦りながらも、もう一杯のカルーアミルクを頼んだ悠理は、しかし次の瞬間「ぐえっ!」と呻くほど強く、背中から抱き締められた。

「僕の妻に何か?」

清四郎の登場である。
しかし隣に立つ男を見た途端、「サイード、ですか?」と驚きの呟きを洩らす。

「お久しぶりです、セイシロウ。あ、殴らないで。決して奥方を口説いていたわけではありませんから、安心してください。」

こうして果たされた三年ぶりの再会。
砂漠の王となったサイードと、彼を意識し続けてきた清四郎。
悠理はこの先、そんな二人の男に挟まれ翻弄されてゆく。

甘く続くはずだった四年目の結婚生活。
どうやら波乱含みの展開となりそうである。