サイードは街を見下ろしていた。
強い風が吹き、黄砂にぼやけた世界。
踏みしめているそこもまた、砂の塔ではないと誰が言える?
この銀色をした建物も、明日には塵に還るかもしれないのだ。
「サイード。」
「マリア。」
一人の美しい女はクリーム色のソファから、ゆっくりとその身を起こした。
30半ばを過ぎたというのに、彼女の肌は張りを保ったまま。
この年頃の女は色気が増し、男を悦ばせる手管に長けているという噂は真実だ。
二人は17もの年の差があるが、ここのところ毎日のように身体を繋げていた。
彼女の性欲に煽られるかのように、サイードも昂りを増す。
妖女が持つ溢れんばかりの欲望には、あの香りも必要としないのだろう。
「サイード………私達は離れられないわ。そうでしょ?」
大きな胸に男の屹立を挟み込みながら、マリアは笑う。
「あぁ………。」
快楽に引き寄せられるサイードは、彼女との始まりを思い出していた。
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ハサナルの指示でマリアの居場所を知り得たのは、約二年前のニューヨークでのこと。
行方不明だった彼女は、未だハサナルの義母の立場に居る。
要するに彼の父の財産を貰い受ける権利がある女なのだ。
しかし彼女が行方を眩ました理由は、とても信じがたいものだった。
「あの頃の私はおかしかったのね。義理とはいえ、まだ思春期の息子をたぶらかして、その上、身籠ってしまうだなんて。夫は持病で子供が出来なかったし。あの人嫉妬深いから、こんなことがバレたら殺されるでしょ?だから逃げたの。ここには昔の知り合いも居たし、身を隠すには丁度良かったのよ。」
そう言って彼女は一枚の写真を見せてくれた。
「ハサナルの娘よ。今は友人の所に預けてる。彼にそっくりでしょう?」
サイードはこの女豹をどう扱えば良いか、思案を巡らせた。
ハサナルに告げるべきか、告げぬべきか。
しかしマリアの隠された欲望は想像以上に大きなものだった。
「あの人はそう長くないと聞いてるわ。となると、ハサナルが全財産を受け継ぐはずよね?」
「まさか……………」
「ふふふ。私の存在を忘れてもらっちゃ困るわ。正当な権利は頂くつもりよ。」
彼女は舌舐めずりをしながら、妖艶に微笑む。
━━━━ハサナルに会わせてはならない。
危険信号が鳴り響き、瞬時に警戒心が働く。
マリアの隠れた毒牙は想像以上に危険だと感じたから。
そうして結局、ハサナルには伝えなかった。
引き続き捜索中とだけ告げて。
しかし彼女とはこまめに連絡を取り合っていた。
まだ学生の身であったが、ハサナルの事業に関わり始めていた私は、害を成すであろうマリアを嫌悪しながらも、監視を続けたのだ。
だが、相手は一枚上手だった。
一年ぶりに再会したマリアは、共に訪れたレストランでの食事に、ある薬を混ぜこんだ。
意識を失い、気付いたときには彼女の思うがまま。
髪を振り乱し、純真さの欠片もない姿で私の腹に跨がっていた。
甘ったるい香りが漂う。
━━━━麝香か。
そう言えばハサナルも、女と遊ぶときにはこの香りを好んでいたな。
そこで初めて気が付く。
彼にこの香りを教えたのはマリアだ。
まだ幼さの残る義息子を虜にするため、決して手段を選ばぬ女。
もしかすると10年前、彼女は計画的に身籠り、そして姿を消したのか?
夫に隠れて切り札を産み落とし、そしてその夫の死を望みながら、10年間ひたすら待っていた?
おぞましい話だったが可能性としては有り得る。
私はより一層ハサナルに会わせてはならない、そう感じた。
ハサナルは実のところ、突然消えたマリアに執着していた。
義母として、家族として、女として・・・
自分でもその事に気付かないのは、彼の心に大きな欠陥があるからだ。
真っ当な愛に飢えているからだ。
そんな時、あの日本人の女が現れた。
ハサナルが自ら動き、手にいれようとした女。
私が知る限り、初めてだった。
けれどこれ以上、マリアの毒牙にかかる人間を増やしてはならない。
そう思った。
ハサナルが執心する女を、マリアは容赦なく殺すだろう。
たとえどんな手を使ってでも。
だから彼女たちにはご退場願ったのだ。
ハサナルの意図を確実に読んで。
父が死に、恋した女には逃げられ、あの頃のハサナルはどこか空虚だった。
狂ったように女を抱くかと思えば、ただひたすら砂漠を見つめる日もあった。
そんな中でもナディヤの肌を撫でる手は、とても優しい。
まるであの少女を思い出しているかのように。
しかしそのナディヤを手放すと決めたのも彼だ。
それしか償う方法を思い付かなかったのだろう。
日本へと送り届ける手配をした私は、何度も自分の胸に問うた。
━━━━彼女を日本から拐ってこようか、と。
それが本当に彼の為になるのなら、マリアから全力で守る方法もあるのではないか、と。
しかし決断できなかった私は、結局片翼を失う。
ハサナルは空虚なまま、死んでいった。
ヘリの操縦を違えることなどなかったはずなのに。
彼は恋と家族を失い、自分でも気付かぬ内に、自棄になっていたのだ。
惜しんでも、惜しんでも、戻ってこない砂漠の王子。
この私が仕えようと心に決めた、たった一人の男であったのに。
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「ふふ。ハサナルもいいタイミングで事故死してくれたわ。私の邪魔にならないよう逝ってくれるなんて、なんて親孝行な息子。」
氷のような言葉を吐く女。
これが彼女の本質だ。
「サイード、貴方はとてもラッキーなのよ。事業も何もかもを受け継いで、私のような大金持ちの女を手にいれたことも。」
「そう………ですね。」
マリアはその赤い舌で、喰らい尽くすような口付けを与える。
天性の色情狂だと気付いたのはここ最近のこと。
ハサナルが他界してすぐにこの国へと舞い戻り、屋敷に転がり込んだ女は、朝も夜も私を離そうとはしない。
━━━━この調子だとあと何人隠し子がいるか分かったものじゃないな。
ぞっとする現実だ。
「マリア・・・薬を。」
「あら、サイード、貴方もとうとう好きになったのね。」
小さな皿から手に取ったそれを、口移しで与える。
そして・・・・・
━━━━マリア、これが私たちの最後の口付けとなるだろう。
欲深き女よ。
せめて快楽の中で旅立つがいい。
これこそが、’砂漠の王’からのせめてもの優しさだ。