一歩、そしてまた一歩。彼女から離れて行く。
だが、その未練がましい足跡を残すことは無いだろう。
背中に降り積もる沫雪が溶ける頃には、その後ろ姿もきっと彼女の視界から消え去っているはずだから。
━━━━これが二人で過ごす最後の冬。
ドドッ
東京で記録的な雪が積もったその日。
庭の松が大きく撓り、音を立てながら湿雪を落とした。
目覚めた直後の僕は、窓からその様子を見つめ、ここが実家であることを思い出す。
時計の針は七時を指し示し、そろそろ身支度をして、会社へと向かわなくてはならない時間だ。
玄関先では、母とお手伝いさんが必死で雪掻きをしているが、あの調子だと朝食は一時間ほど遅れそうなので、コーヒーだけ飲むことにする。
手早く顔を洗い、いつものように寝癖を整える。
使い慣れたシェーバーは……
あぁ、悠理のところか。
仕方なく泡を立て、昔の剃刀を使った。
クローゼットを開けると、少し古い形のスーツが並んでいる。
その中でも無難な、濃紺の物を取り出し、ネクタイを合わせながら、いつものように鏡へと向かう。
変わらない行動と動作。
なぜ、こんなにも変わらない?
夕べのお前は、最愛の恋人を失ったというのに。
・
・
・
悠理とは大学三年からの付き合いで、僕はすぐに剣菱家へと迎え入れられた。
結婚を見据えた交際というやつで、比較的上手くやってきたつもりだった。
しかし━━━━
長い付き合いからか、少しずつ甘えが生じ、それがいつしか数ミリのズレを生み出していた。
悠理は基本、我儘なお嬢様だが、とても一途で素直な性格だ。
そんなところが好ましく、独り占めしたくなり、交際を申し込んだのだが、僕は彼女のように一途ではない。
女に対してという意味でなく、学問や趣味といった、悠理には理解されがたい分野に没頭することが多くて、その都度、寂しい思いをさせていたらしい。
昔からのライフスタイルを崩さないまま社会人となり、二人きりの時間はどんどん削られていった。
同じ屋根の下で暮らしているというのに。
腹に据えかねた悠理は、とうとう浮気をしてしまう。
浮気といっても、体を繋げたわけではなく、夜通し男の家で飲み明かしただけなのだが、その時、彼女は『寂しさに負けた』と正直に告白してきた。
どうやら唇だけは許してしまったらしい。
何度も、何度も……………
許す、許さない。
そういう問題ではなかった。
僕は激しく憤り、その怒りを窓ガラスにぶつけてしまう。
砕け散るそれを見て、目を見開く悠理。
きっと初めてだったろう。
紛れもない男の暴力に震えていた。
後悔しても遅かった。
血塗れの手を伸ばせば、怯える彼女は遠ざかる。
「ごめん、ごめん………悠理。」
ふるふると首を振るも、自分の過ちを悔やんでいるのか、いつものように飛び込んでは来ない。
流れる涙は悔恨のそれ。
━━━━男女の別れなど………呆気ないものだ。
過去の経験で理解していたはずの真実。
だからこそ慎重になるべきだったのに、僕は長年の関係に胡座を掻き、悠理の声をいつもの我儘と捉え、無視していた。
SOSを見逃したのは、間違いなくこの僕の過ちだ。
「別れよう。」
そう言い出したのは、何を求めての事だったのか。
すがり付く悠理が見たかった?
それとも、彼女の失態を責めるためか?
いや、自分の責任から目を逸らすためだ。
悠理は涙を溢しながら静かに頷く。
「………ごめん。」
そう一言呟いて。
心が急速に冷えて行く。
もう、これで終わりなのだ。
絶望と哀しみは容赦なく胸を貫いた。
居たたまれない空気に、廊下へと足を踏み出せば、悠理はその後ろをトボトボとついてくる。
今、振り返って、抱き締めて、キスをして、それで全ては元通りになるんじゃないか?
謝って、やり直そうと手を差し伸べれば、いつもの笑顔が見られるんじゃないか?
しかし、それが出来なかったのは、僕の中で激しい嫉妬心が燃え盛っていたからだ。
悠理の唇を奪った男のところへ、今すぐにでも駆けつけ、息の根を止めてやりたい。
そして地獄へ堕ちる直前、ヤツの目の前で、彼女が誰のものであるかを思い知らせてやりたい。
それだけではなかった。
僕は悠理への憤りに対し、己に恐怖していた。
彼女の懺悔を耳にしたとき、マグマのような怒りは身を焦がすかのように熱く、頭が煮えたぎる思いだった。
奥歯が欠けるのではないかと思うほど、力がこもる。
━━━このままでは無茶苦茶にしてしまう。悠理を奪い尽くし、壊してしまう。
だからガラスにそれをぶつけ、発散させたのだ。
だけどあの時、どうして優しく抱き締めてやれなかったのか。
彼女の目は後悔という名の悲壮感で、暗く濁っていたというのに。
狭量な自分は恥ずべき存在だ。
口から飛び出した言葉を撤回することもまた、あまりにも拙い。
だから彼女に見送られた時、僕の中で全てが終わった気がした。
悠理はもう、求めては来ないだろう。
理想と現実の差に、心は深く傷ついたはずだから。
だけどもし、
こうして離れてみて、
また磁石のように惹かれ合う事があったなら、その時は決して放さない。
どれだけ足掻いても、腕の中から一歩も外に出しはしない。
呼吸すら、この僕が与えてやる。
今はまだ哀しい傷に憂いているけれど。
もし、また、その日が来たら………
悠理視点は次ページへ。