最終話

その日は運動会だった───

良家の子息子女には、これまた過保護な親がついている。
朝早くから日傘をさすマダム達の笑い声が、聖プレジデント学園中等部には広がっていた。

運動会といえば、誰よりも活躍の場を求める少女が一人。
そして彼女の取り巻き達も期待に目を輝かせる。

「悠理!今年のリレーはぶっちぎりでお願いね!」
「当然でしょ!この学年に悠理よりも速く走れる子は居ないわ。」

任せとけ!と言いたいところだったが、プログラムに書かれたリレーメンバーの中に、菊正宗清四郎の名を見つけ、心がざわめく。

───あいつ、足速かったっけ?

 

あの日。
ディズニーランドは楽しかった。
ありとあらゆるアトラクションを網羅し、まさしく夢のような時間を過ごした二人。
彼の屈託無い笑顔や、時折おどけて見せる意外な姿に、悠理はすっかり心を開いていた。

白鹿野梨子が居ないだけで、こんなにも距離が縮まるのか。

そんな発見もまた、悠理にとっては貴重なものとなり、別れ際の寂しさは言葉に言い表せないほど複雑だった。

あれから暫く経つが、廊下や講堂などで目と目が合えば、クスッと笑い合う仲くらいには発展している。
それは照れ臭さと喜びが入り交じった甘い感覚。
悠理にとって、初めての経験だった。

「障害物競走にも出るよね。悠理、大丈夫?リレーの後直ぐだよ?」
「んなの、問題ないって!」

誰だと思ってる!とばかりに胸を叩く頼もしいクラスメイト。
男子そっちのけの応援と期待は、悠理の闘志を一気に奮い立たせた。

 

「んじゃ、リレー行ってくる!」

拡声器で呼ばれたメンバーがグラウンドに集合し、周りの声援もひときわ大きく響きわたる。
各クラスから選ばれた男女三人ずつの混合リレー。
隣のレーンには準備運動をする清四郎が居て、悠理は心なしか緊張をおぼえた。

不意に視線が絡む。
彼は穏やかな表情で目を細め、口元は「がんばろう」と象られていた。

爽やかな風に揺れる黒髪。
青いハチマキが良く似合っている。
改めて見ると、彼はとても凛々しい顔立ちをしていて、他の男子達が幼く感じてしまう。

悠理は目が離せなかった。
天に向けられたピストルの音が鳴る其の瞬間まで────

結果………清四郎のクラスは女子が派手に転んだ為、最下位。
トップは見事、悠理のクラスだった。
最終走者である清四郎の走りは人並みだったが、それが真の実力とはとてもじゃないが思えない。
汗一つかかず、クラスメイト達に迎えられた彼を、悠理は複雑な気持ちで眺めていた。

───ざわざわ

どうしたというのだろう。
清四郎の姿に意識が奪われてしまう理由は何なんだ?

それでも時の鐘が昼を告げると、空腹に呻く腹が現実へと引き戻す。

「嬢ちゃま~!!」

五代の声が遠くから聞こえ、その手にはお待ちかねの弁当がぶら下げられていた。
いつもなら祭りの如き賑やかさで訪れる父母も、今日はとある国王の結婚式に参列している為、不在。
代わりに執事がやってきて、色々世話を焼く。
傍目から注目されることにも慣れている悠理は、広げられたレジャーシートの上で黙々と重箱に手を付け始めた。

手鞠寿司
おにぎり
だし巻き卵にゴボウ巻き。

一の重から三の重までぎっしりと詰められた好物は、お抱えシェフの腕の見せ所である。

チラと視線を投げれば、ポプラの木の下でいつもの二人が仲良く茣蓙を広げている。
どちらの母親だろうか。
優しそうな微笑みを湛えたその人は、彼らへと丁寧にお総菜を取り分けていた。

二人は昔から変わらない。
朝夕いつも共にいて、他とは違った存在感を示している。
そこだけ空間が切り取られたような濃密な雰囲気で、他を寄せ付けようとはしない。

胸がざわつく───

白鹿野梨子の笑顔に苛立ちが募る。
菊正宗清四郎の涼しげな顔に切なさが沁みる。

二人は古くからの幼なじみ。
あの因縁がなければ、果たしてここまで気になることもなかったのだろうか?

悠理は口に入れたおにぎりをぐっと飲み込み、その疑問に蓋をしようと試みた。

その時、
ふと…………清四郎がこちらに気付く。

互いの距離は20メートル。
絡み合う視線は真っ直ぐで、悠理の心が弾んだ。
それは紛れもない喜びだったが、彼女はまだ幼く、自覚に乏しい。
意味深に微笑まれても、その意味までは分からないのだ。

彼の長い指がトントンと口端を叩き、悠理は慌てて自分のご飯粒を拭った。
普段なら気にもならないのに、何故か気恥ずかしく、俯いてしまう。

チロっと見上げれば、彼は再び野梨子たちとの歓談に戻っていたし、何も無かったような笑顔を見せていた。

この感覚は一体何と呼べばいいんだろう?

思春期真っ直中の彼女は、戸惑いを見せる。

まだ気付かなくて良い。
まだ知らなくて良い。

どこからかそんな忠告が聞こえてくるような気がした。
思い違いかもしれないけれど。

「「悠理~!」」

クラスメイトたちはまるで空気を割くように黄色い声をあげ、やってくる。
ホッとする瞬間だ。

「すごい活躍だったね!午後からも期待してるから。」
「ムカデ競走だったっけ?」
「違うわ、棒倒しよ。」

慕われ、頼られることは素直に嬉しい。
無邪気に、そして他愛の話で盛り上がれる年頃。
あっという間に過ぎ去っていくこの時期を何よりも大事にしたい。

悠理は頭を振ると、再び重箱の中身に手を付け始めた。

爽やかな秋風が頬をすり抜け、目覚めを促そうとする。
この時もし、その目覚めとやらを無視していなければ、何かが変わったのだろうか。

清四郎と野梨子。
因縁の二人とまた違った関係になるまで、しばしの時が必要となる。
それはもしかすると、淡い想いよりも遥かに大きく、貴重なもの。
「友情」と云うかけがえのない宝は、彼女が何よりも望んでいたものであるからして。

そして──────

悠理がこの甘酸っぱい思春期を懐かしむ頃。
傍らには黒髪の青年が優しく微笑んでいるに違いない。

時はまた、絆を深める為の必要なアイテムだから。

<完>