IF 悠理が菊正宗家に嫁いだら(ショート)

「あら、紫陽花が満開。」

玄関から一歩出たばかりの和子は目を細め、喜んだ。
彼女の誕生月でもある水無月はじめじめと鬱陶しいものの、青紫の花が雨によく似合うため、わりと好きな季節となっている。
隣家のお嬢様はいつも二枝ほど持ち帰り、玄関先に飾っているようだが、果たしてうちの嫁はどうだろうか。

「ま。そんなタイプじゃないわよね。」

そう言って、彼女は家の前に停まっていたタクシーにいそいそと乗り込み、学会へと赴いた。

和子が去って20分後。
菊正宗家に嫁いで半年の新妻は、剪定バサミを片手に庭先へ現れた。
フンフン♪
調子の良い鼻歌が湿気た空気を霧散させる。
どれほど鬱陶しい天気であろうとも、彼女の頭の中には晴天が広がっているのだ。

「ん~・・・床の間に飾る花、ねぇ。義母ちゃんも写真くらい見せてくれりゃいいのに。どれが良いのかわかんないじょ。」

悠理に花を愛でるような趣味は一ミリもなく、今は義母に仕込まれている最中。
菊正宗家の庭は毎年、四季折々の花々に彩られ、まるで隣家と競い合っているかのように年々その規模を膨らませていた。

その中でも紫陽花は見事なもので、清四郎が作った妖しげな試薬が功を奏した、という噂がまことしやかに広まっている。

「とにかく派手なのが良いよな?………となると、紫陽花かぁ。」

目に留まった青紫の花は、確かに見事な咲きっぷり。
悠理は手にしたハサミでばっさり、枝を切り取った。
無論、華道の心得などありはしない。
豪快、ワイルド、型破り。
それらは彼女のモットーでもある。

「一本じゃ何だし、もうちょっと………」

ザクザクと切り落とし続ければ、悲しいかな、先ほどまでの見事な庭の様相は瞬く間に無惨な姿となり────

「…………うーん、切りすぎた?」

苦笑しつつも、両手に花を抱え部屋へと戻ると、お茶を啜る義母へと突きだした。

わさっ!
想像したよりも遙かに多い。

「悠理ちゃん………これ………」

戸惑う義母は恐る恐る受け取るも、とてもじゃないが床の間に飾る量ではない。

「うん、紫陽花!これじゃ、だめ?」

「…………ダメってわけじゃ………でも少し量が多いかしらねえ?」

気がかりな庭の状態は後回しにして、床の間への飾り付けを頭に浮かべる清四郎の母。
彼女は基本おっとりとした人間で、滅多に困ることはないのだが───さすがに困惑している。

そこへ──

「どうしました?」

さっき見送ったはずの息子が顔を覗かせた。
剣菱本社に勤務する彼は今年25才。
最愛の悠理を手に入れて、今が一番幸せな時期である。

「あら、清四郎。まだ出かけてなかったの?」

「忘れ物を取りに、ね。………庭の惨状はやはり悠理でしたか。」

「惨状…………」

義母の顔がようやく微かに曇った。

「え?あたい、何かマズった?」

悪気のない失敗には清四郎も寛容である。
そんなところは母譲りなのかもしれない。

「………清四郎、どうしたらいいかしら?こんなにもたくさんの紫陽花………」

「そうですね。………病院の院長室にでも飾ればどうです?あそこはいつも殺風景でしょう?」

「あら名案!じゃ、早速行ってこようかしら?」

陽気な母の出かける姿に、悠理はホッと安堵の息を吐く。
どうやら床の間には不適切なボリュームだったらしい。

「あたいに華道は無理だと思うんだけど………」

「少しずつ覚えれば良いんですよ。誰も多くを期待しちゃいません。」

「それはそれで………なんとなーく………」

ムッとした悠理の肩を、清四郎の腕が抱き寄せる。
彼にとって華より何より、妻として側で笑ってくれている事の方がよほど大きな仕事だ。

「おふくろも充分解ってます。おまえの努力を。」

「…………うん。」

嫁いできてからというもの、慣れない嫁修行に四苦八苦している悠理。
失敗も多く、割った皿はとうとう二桁に突入した。
それでも朝ご飯の味噌汁は作れるようになったし(一期一会の味付けだが)、お手伝いさんの掃除を見様見真似で頑張る姿も見受けられた。
そんな新妻の働きぶりを家族全員が微笑ましく見守っている。

何せ元はじゃじゃ馬令嬢なのだ。
今こうして妻らしい振る舞いを見せていることだけでも奇跡だった。

「それにね。皆が期待している仕事は別にありますよ。」

「え?何?まだなんか足りてない?」

意味深に笑う夫を不安げに見上げると、清四郎の唇がそっと耳にまで落ちてくる。
優しい感触。
悠理はくすぐったさに首を竦め、反射的に頬紅くした。

「ええ。……………僕の子をここに宿すことです。」

大きな手が腹部を覆い、何度も撫でられる。
さすがにお馬鹿な悠理も意味を捉えた。

「こ、”子“って………赤ちゃん?」

「そう。親父もおふくろも、早く孫の顔を見たいんでしょうね。最近やたらと精のつく料理を出してくるんですよ。」

「あぁ、そういえば───」

夕べは鰻重。
その前は牡蠣鍋で、更にその前はニンニクたっぷりの極上ステーキだった。

「………おかげで夜は長く楽しめていますけどね。」

「ば、ばぁたれ!朝っぱらから何言ってんだ!」

「そろそろ……本気で仕込んでもいいですか?」

「ど、どういうこと???」

二人は結婚当初から避妊などしていない。
清四郎に全てを任せている悠理にとって、何が本気か、そうでないかなど、解るはずがないのだ。

「まずは基礎体温を。排卵日をしっかり把握して、その日は酒も飲まずにゆっくり……時間をかけて交わりましょう。」

「いっつも長いじゃんか!」

「そうですかね?」

すっとぼける清四郎はそれでも本気なのだろう。
妻の身体を抱きしめると、恐ろしく魅惑的な声で「一晩でも足りないくらいです」と暴露した。

「…………子供、欲しいの?」

「まあ、それなりに。」

「………あたいが母親って、なんかの冗談みたいじゃない?」

「うーん………どうでしょうね。おまえがたとえ、どれほど粗雑な母親になろうとも、僕は常に協力的な父親でいるつもりですよ。」

「清四郎が父親になるってのも、ジョーダンみたいだな!」

「………ま、それはさておき、早速明日から基礎体温、つけてくださいね。」

そう言って、清四郎は妻へ温かいキスを送った。

「いってらっしゃーい!」

夫を見送った後、悠理はふと、首を傾げる。

「ん?“キソタイオン”……って何だっけ?」

ここまで無知な新妻ならば、子作りは先延ばしにしたほうが良いのかもしれない。

とはいえ、コウノトリがやってくるのも時間の問題。
菊正宗、剣菱両家にとっての待望の天使は、もうすぐそこにまで…………