Don と 来い!

夕べは──いつもよりあっさりした夜だった。

それも仕方ない。
東南アジアの新興国を三週間かけて巡ってきたのだ。
遊びならともかく、仕事となるとさすがに疲れも溜まる。
いくら清四郎がタフだったとしても。

朝まであるはずの温もりが早朝には消え、ヤツは早速書斎に籠もってしまった。
どうやら役員を集め、会議を開くらしい。
うちの大広間は、何かあれば皆が顔を揃える。
昔からの決まり事。

ようやく覚醒し始めた頭でベッドから下りれば、きちんとパジャマが着せられていて、風邪をひかないようにとのヤツの気遣いが感じられる。
清四郎はとことんタフだが、あたいはたまに風邪を引く。
滅多に引かない分、一度かかるとなかなか治らない。

「風呂入ろ。」

重力に逆らった寝癖をそのままに、バスルームへと向かえば、くらり、目眩を感じた。

目眩?
なんで?
夕べは酒も飲んでないのに───

ガラス戸に手をつき、しばらく立ち尽くす。
どうも体調が優れない。
風邪とは違う違和感のある倦怠感。
手のひらに息を吹きかけると、心なしか熱く感じ、発熱を予感した。

「うーん…………」

湯船にはいつもたっぷりのお湯が溜められていて、フランス産の入浴剤が香り立っている。
朝は弱いけれど、湯船に浸かってのんびりストレッチでもすれば、頭は徐々に目覚め始める────いつもなら。

「胸焼け………じゃないよな。」

昨日の夕食は清四郎が大好きな鮟鱇鍋だった。
調子に乗って、あたいもたくさん食べたけど、酒は飲まなかったし、ご飯も三杯で止めた。
決していつもより食べ過ぎたわけじゃあない。

鮟鱇、旨かった。
馬刺も最高だった。
デザートのメロンも、アイスも………

ぐるぐると頭を巡る夕べの献立。
ぐるぐると回る………見慣れた視界。

「うえっ………」

ダメだ、吐く!

咄嗟に隣のトイレへ駆け込み、便器に向かって嘔吐する。
消化が人一倍早いのが特技。
だから基本胃液しか出てこない。

「うぅっ………」

何度吐いても、気持ち悪さがなくならないのはなんでだ?

清四郎………
清四郎……………

便座を掴み、涙を流し、夫の名を心の中で呼ぶ。
心細さが襲ってきて、身体がカタカタ震える。

鮟鱇?
馬刺?
メロンじゃないよな?

その時は軽く食中毒を疑った。

もしかするとあたいだけ何か変なもの食ったか?
それとも食べ合わせ?

全ての胃液を吐き出しても、目眩と吐き気は去らない。
ほふく前進で洗面所へ向かい、両足を奮い立たせるよう立ち上がった。
冷たい水で顔を洗うと少しだけ気分が良くなる。
少しだけ。

────しばらくこうしていよう。

濡らしたタオルを手に座り込むと、それを瞼にぐっと押しつける。
こんなのは初めてのこと。
健康面では金メダルを貰ってもいいほど優秀だったのに。
年かな…………なんて柄にもなく落ち込む。

暫く目を閉じていると────

「悠理……?悠理、どこです?」

扉の向こうから清四郎の声。

「ここ………清四郎。」

大きな声も出せず、力ない手で床をノックすると、奴は慌てた様子で飛び込んできた。

「どうしたんだ!?」

血相を変え、屈み込む。
状況を説明することすら難しく、タオルを置いたままの状態で、「気持ち悪い」と身振り手振りで伝えた。

「頭くらくらして………胃液が………」

「吐いたのか?」

小さく頷けば、脈をとっていた清四郎は携帯電話でどこかへ連絡し始める。その間に羽織らされるバスローブ。

「ええ、今から向かいます。…………いえ、救急車じゃない。………はい、よろしく。」

相手は十中八九、菊正宗総合病院だろう。
あたいのデータの全てが、そこに管理されているのだから。

「僕にしがみついて。立ち上がりますよ。」

よろめくことのない圧倒的な力で、軽々と抱え上げられ天地が揺らぐ。

「気持ち悪いのなら………ほら、これを持って、好きなだけ吐け。」

洗面所に置かれた薔薇柄のゴミ箱。
こんな情けない状況下でも、こいつが居てくれるからなにも不安に思わなかった。

よかった───清四郎が居てくれて。

それからすぐ名輪の車に乗せられ、病院の裏口にたどり着く。
ストレッチャーと看護師、それに和子姉が待ちかまえていて、慌ただしく処置室へと運ばれた。
吐き気はまだ収まらない。



「六週目くらいね。」

「六週目?」

検査で判明したこと。
それは二人とも想像してこなかった現実。

「え………本当ですか?」

「失礼ね。………ちゃんと専門の先生にも診てもらったわよ。なに?結婚してんだから別におかしくないでしょ?」

「いえ………悠理はピルを服用していて………」

「あら、そうなの!?」

和子姉の驚きっぷりに、清四郎はばつ悪そうに頭を掻く。
それは結婚当初の決め事で、三年間は夫婦水入らずで過ごすことを選んだ。

「うーん………それなら高確率で妊娠しないはずなんだけどなぁ。…………悠理ちゃん、飲み忘れとかなぁい?」

「…………えと…………もしかすると一日くらいは。」

「悠理………それですよ。」

眉間を押さえ溜息を吐く清四郎に、思わず肩を竦ませてしまう。
そういえば一日忘れただけで効果は無くなるかもって、聞いてたっけ。

「とにかく!お腹の中には赤ちゃんが居る!二人ともさっさと覚悟決めなさい!」

「分かってます。…………喜ばしいことですし。ただ来月…………ロンドンで行われるロックコンサートのチケットを苦労して手に入れたばかりでしてね。………ちょっとガックリきただけです。」

「え!?『ホライゾン』のチケット!??取れたの!?」

それはあたいが一年以上前から強請っていたプレミアチケット。
倍率が凄すぎて、清四郎があの手この手を使って頑張ってくれていたんだ。

「あら、残念。今回は諦めるしかないわね。」

「魅録に売りつけてやろうよ!」

「………そうするしかありませんな。」

腹に赤ちゃんが居る───なんて自覚も何もないから、本当はすごく行きたいけど、それでも小さな命を引き替えにするわけにはいかない。

「悠理。」

「ん?」

「……………おめでとう。僕たちは親になるんですよ。」

清四郎の微笑みが蕩けるように優しくて、胸の中がじわっと熱くなってゆく。

「うん。……………清四郎も、おめでと。」

誰よりも温かな腕に包まれ、あたいは今までで感じたことがないほど幸せな気分に満たされた。

親になる────

不安も戸惑いも山ほどある。
だけどこの男が側に居てくれたら間違いなく無敵!

ドンと来い!マイベイビー!
あたいたちがとことん可愛がってやるかんな。

外を見れば、晴れ渡った秋空が祝福しているように感じた。