おもひで

 

────清四郎ちゃん!

見た目からは想像できないほど気の強い少女の呼び声が、中庭に響きわたった。
桜はすっかり花びらを落とし、すでに初夏の陽射しを感じさせる空が広がっている。

普段は穏やかな日常が繰り広げられる聖プレジデント学園幼稚舎。
超のつくお金持ちが、安心と安全、そして完璧な教育を得るため、大金をはたいてでも我が子をこの学園に入れようとする。
親もまたプレジデントの卒業生が多く、何かと都合が利くという理由もあった。

剣菱悠理にとって、この学園は退屈な箱でしかない。
金持ちのお坊ちゃま、お嬢ちゃま達は皆、お上品に育てられ、声を張り上げて庭を駆け回る、なんてこともしない。
たまにある運動の授業では、辿々しくかけっこをしたり、中には転んだ瞬間から泣いてしまう子供も多かった。
ごくごく一部に、やんちゃな悪ガキも居るには居たが、彼らは既にボス猿の支配下にあり、社会のヒエラルキーをこの年で体現させられていた。

もちろんそのボス猿とは、彼女、剣菱悠理である。

幼稚舎の入学式早々、刃向かう奴らをこてんぱんに打ちのめした実績を持つ悠理は、すっかり天狗になっていた。
そんな悠理もしかし、白鹿野梨子にだけは一目を置いていて、彼女のような骨のある少女が存在することを、心のどこかで楽しく思っていたのだ。

もちろん態度には表さない。
顔を見れば悪態を吐き、相手の澄ました顔を歪めることこそが日課となっていた。

そんな白鹿野梨子の幼なじみが弱虫清四郎で───
男のくせに女に庇われ、尻餅をつくようなヘタレを悠理は、『情けない野郎だ。』
と遠巻きに見ながら、あんなのは“男”じゃないよな、と蔑んでいた。

その時の彼女のウェイトは、間違いなく野梨子へと傾いていたに違いない。
ツンツンした女は嫌いだが、本能が察知したのだろう。『敵わない』と思う部分が悠理の興味をそそった。

「清四郎ちゃんに何するの!!」

悲鳴のような叫びが響きわたり、悠理が思わず振り返ると、花の落ちた桜の下で、おかっぱ頭の幼女が同じ黒髪の幼なじみへと駆け寄るところだった。

彼らの周りには見た顔が三つ、並んでいる。
それは入学式の時、悠理の蹴りで地べたに這い蹲った三人の悪ガキども。

喧嘩をふっかけた理由は確か────

『やーい!成金!おまえの父ちゃん、で、べ、そ!』

と詰られたからである。
10倍返しが鉄則の悠理が反撃を躊躇うはずもない。
髪の毛を引っ張り、蹴り飛ばし、真新しい制服に泥をつけた。

泣こうが喚こうが弱肉強食。知ったことではない。

そんな負け組の彼らが、次に目をつけたのは清四郎だった。
弱々しいお坊ちゃまなら何とでもなると思ったのだろう。もしくは可愛らしい女の子が側にいて、腹立たしかったのかもしれない。

幼くとも男は男。結局は女の取り合いである。

悪ガキどもは神童と讃えられた清四郎を不意打ちで突き飛ばし、地面を蹴り、砂をかける。

入学早々、悠理の暴言でショックを受けた清四郎であったが、もちろん武道は始めたばかりで、悪たれ三人に太刀打ち出来るはずもない。
擦りむいた膝を抱え、ギッと睨むことしか出来なかったところ、大和撫子を代名詞に持つ幼なじみが勢いよく駆けつけたのだ。

────ふーん。また、かばわれてやんの。弱虫め!

悠理は遠巻きにそれを眺めつつも、三人の暴挙に対し、おもしろくない感情を抱いた。

───あいつらだって弱いくせに、調子に乗りやがって。

それはもしかするとささやかな保護欲だったのかもしれない。
もしくは自分以外の奴に苛められる事が許せない、所謂、ジャ●アンのような感覚。

悠理はチッと舌打ちしつつ、彼らの集まりへと歩き始めた。

しかし、怒声にも近い野梨子の叫びが先生に届いたのだろう。
普段は優しい顔をしているが、怒らせたら閻魔のように怖い女先生が一足早く到着した。
案の定クドクドと叱られ、三人はしょぼん、意気消沈している。

利発な少年は立ち上がると、制服の汚れをはたき落とし、野梨子に向かって笑顔を作った。

「清四郎ちゃん、怪我はない?」
「大丈夫。ありがとう、野梨子ちゃん。」

二人の純粋無垢な笑顔は大人をも魅了する。当然教師受けは良かった。

説教のため悪ガキ三人が連れて行かれた後、彼らはフフフと見つめ合い、手を繋ぎ仲良く歩き始めた。

それを見て、悠理の心に冷たい風が吹く。
そこには決して他を寄せ付けない空気が存在し、何故だろう、癪に障った。

信頼しきった顔を見せ合える彼らを、素直に羨ましいと言えない幼さ。
意地っ張りな悠理は、フンと鼻を鳴らす。

あの高飛車な女が苦手だった。
そんな女に庇われる清四郎にもイライラが増した。
悠理とは遙か遠い場所にいる二人を、友にする日が来るなんて、想像もしていなかった。

永遠に来ないと、信じていた。

 

けれど────

 

長い、長い時が経ち、思春期という青い季節を迎え、三人がようやく交わることが出来たのはまさに奇跡。

いや、これも運命だったのかもしれない。

そして何度も季節は巡り───


「ありっ?幼稚舎ってこんなにも綺麗だったっけ?」

「子供が産まれた時、僕とお義父さんが連盟で寄付させてもらったんですよ。」

「ふーん……なんか陰で色々してんだな。」

真新しい学び舎を見上げながら、悠理は愛娘を抱き上げ、笑顔を見せる。

「ほら、清佳(きよか)。今日からここに通うんだぞ!」

「パパとママも?」

「うーん………母ちゃんはとっくに卒業したからなぁ。おまえはこれからいっーぱい友達を作ればいい。」

「うん!100人作るー!」

「よしっ!いい子だ。」

あの時、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
弱虫だった清四郎がいつの間にか成長し、誰よりも強く、賢くなって悠理を超える力を持つなんて───想像出来るはずもない。

“悔しかったんですよ。………おまえの馬鹿にしたような視線が、痛いほど伝わってきて………正直辛かった。”

小さな少年に大きな意志が芽生え、それは彼を多少歪ませてしまったのかもしれないが、かけがえのない絆を作り上げたのも事実。

そしてコンプレックスの全てを払拭した時、傍らにいる一人の少女を誰よりも愛していると、彼は気付いた。

「清四郎。思い出すよな。」

「…………ええ。」

「よくもまあ、こんなでかく育ちやがって………。昔はあたいよりチビだったくせに。」

「おまえの場合………中身はほとんど変わってませんね。」

「むっ!?」

「外見は……………恐ろしく綺麗になったけれど。」

夫の腕に強く抱き寄せられ、悠理は昔の記憶の青空に溶かす。

もう、どこを探してもあの弱虫なおチビは居ない。
野梨子の後ろで目を瞬かせていた純粋な男の子。
少し懐かしく……………そしてどこか愛おしい存在が、悠理の中から消え去ってゆく。

「おまえに会えて…………良かったよ。」

「もちろん。………僕も同じ事を思っていました。」

月日は流れ、思い出はまた塗り替えられる。
そんな繰り返しこそが、この学び舎の歴史を作り、新たな伝説の温床となるのだ。

 

「ママ~!写真撮ってーー!」

「よしっ!皆で撮ろう!」

駆け出した幼い我が子を眩しそうに見つめ、悠理と清四郎はにこやかにその後ろを追いかけた。

学園の春はまだ始まったばかり。
新しい出会いはきっとすぐそこに待っている────