some day(ショート)

ひとしきりの雨が空気を澄んだものにする。
眩しいほどの空と木々の緑。
水滴に輝く太陽の光。
雨上がりの景色が
こんなにも美しいなんて────

悠理は無意識に目を細めた。

菊正宗総合病院には何度もお世話になっていて、顔見知りの看護師もチラホラ存在する。
ただでさえ目立つ容姿だ。
黙って居ても相手から声をかけてくる。

そんな理由だけでなく、彼女を知らぬ者はこの国では珍しいだろう。
つい先日も、前人未到、20回のお色直しに苦悶する令嬢の顔が全国に流され、剣菱の財力と百合子の強制力が余すことなく知れ渡ったばかりだ。
娘の披露宴をファッションショーにしてしまう独創性に、ワイドショーのコメンテーターは苦笑いでそれを伝えた。
もちろん好意的な言葉に置き換えて。

「はぁ~・・・時間かかりそうだな。」

そこは優しい色に包まれた産科の前。
ゆったりとした服装のママ達が、雑誌をめくりながら待ち時間を過ごしていた。
彼女達のほとんどが、穏やかな笑みを湛えている。
聖母さながらの微笑み。
小さな命を愛おしむ顔だ。

悠理は自分の腹を見下ろし、溜息を吐いた。
もしかすると自分は場違いな存在なのかもしれないという不安が拭えないからだ。

────それならそれでいい。

母親になるなんて覚悟はまだまだ無かったし、夕べは何となく生理が来ていないことを思い出しただけ。
ただの不順かもしれないのに、果たしてこんな大病院で診て貰う必要があるのだろうか?

悠理は朝から盛大に迷っていた。

彼女が一番相談したい相手はここ一ヶ月、ヨーロッパを忙しく駆けずり回っていて、なかなか連絡が取れない。
時差の所為もあるのだろう。
メールのやり取りの多くもリアルタイムとはいかなかった。

迷った挙げ句、可憐に相談したら、「とっとと行きなさい!」と背中を押された為、名輪に送り届けてもらったのだが────

「なんかなぁ・・・」

とても子供がいるとは思えず、診察前の問診票を埋める手も億劫だった。

何故なら夫である清四郎は、悠理の全てを把握していて、安全日から避妊方法まで抜かりない。
それも彼の性格を考えれば当然のこと。

─────子作りはあと数年したら考えます。

と結婚する直前、宣言していたような気もするので悠理は疑いもしなかったのだ。
清四郎という男がミスなどするはずもないし、これはただ単に自分の気のせいだ、と思いたかった。
可憐の猛烈な後押しがなければ、この病院の門をくぐることもなかっただろう。

「剣菱さん。書けましたか?」

「あ。一応………」

40代半ばのベテラン看護師は悠理から紙を受け取ると、それを素早くチェックした。

「尿検査が必要なので、このメモリまでお願いします。」

見慣れた紙コップを渡され、トイレへと促される。
代謝の良い悠理は比較的自由に尿を出せる為、苦労はなかった。
コップを所定の位置に置き外へ出ると、大きなお腹の妊婦とすれ違った。
悠理の顔をチラと見て、驚いたように目を瞠る。

恥ずかしい────

と感じるのは、妊娠するような事をしていると想像されているからだろうか。
結婚しているのだから当然なのに、悠理はその辺りについてまだ受け入れられなかった。

────くそ。ちっちゃなクリニックに行けば良かったか。

とはいえ、もし妊娠していたら、間違いなく菊正宗総合病院を選び、出産するだろう。
他に選択肢など無い。

「剣菱さーん!診察ですよー。」

先ほどの看護師の声は大きく、珍しい名字を怒声のように呼ばれ、悠理は真っ赤になりながら診察室のドアを開けた。
清潔感のある白い部屋。
医師の机は機能的で大きい。

「お名前を。」

「剣菱………悠理です。」

「まずは血圧から測りましょうか。」

担当医は三十半ばの男だった。
軽量の銀縁眼鏡をかけ、黒々とした髪をオールバックにしている。
神経質そうな医師を前に、悠理は大人しく腕を差し出す。
血圧は高くもなく低くもなく、いつもと変わりない。
彼はそれを素早く入力すると、再びこちらを振り返った。

「色々質問があるので、きちんと答えてくださいね。」

「………はい。」

そこから尋ねられた事は、夫婦の性生活を含むとてもデリケートな内容だった。
一つ一つ辿々しく答えてゆくと、彼はそれらを全てわかりやすい言葉に置き換え、入力する。

「では次に内診を。ズボンと下着を脱いだらあの機械に座って。」

「え、あれ?」

「座るだけで後は自動的に動きますから。」

言われたとおり、カーテンの裏で下半身から衣類を落とす。
備え付けの籠に放り込んだ後、サーモンピンクの座面に腰掛けると、モーター音と共に脚を支える部分が開き、悠理の全てが明るい照明の下に晒された。
短めのカーテンが腰の辺りにある。
医者の顔はこちらから見えないようになっているも、決して恥ずかしくないわけじゃあない。

「少しひんやりしますよ。器具が入りますので。」

「え……ぁ……んぐっ!」

違和感と異物感に思わず声が出る。
医者の言った通り、それは想像より冷たくて、どんな格好で初対面の男と対峙しているのか考えれば、屈辱で泣きそうになった。
目をギュッと閉じ、早く終われ!と願う。
願いが通じたのか、器具はすんなり抜かれ、機械は元通りの形に戻った。

「次、超音波。」

医師が看護師にそう伝える中、再びカーテンの陰で衣類を身に着ける。

────可憐についてきてもらえばよかったな。

脱力感に見舞われ、激しく後悔しながらも看護師の先導で、隣にある薄暗い部屋に移る。
過去、超音波検査は何度かしたことがあり、さすがに恐怖はなかった。

医師の沈黙が続く。
何度も往復する器具とモニターのもやもやとした映像。

もしかすると妊娠していないのかもしれない。
まさか、別の病気だったりして?

様々な感情が入り乱れ、悠理はグッと息を止めた。
やはり一人で来なければ良かったと後悔するが、どちらにせよ覚悟を決めなくてはならない。

「あの…………せんせ……」

「ん~………子宮も綺麗だし、特に腫瘍も見当たりません。妊娠の兆候も───今のところ無いな。となると単純に生理不順でしょう。」

ホッとする言葉。
だけど、胸の中にスカンと穴が空いたような虚しさも漂った。

「………ほんとに?」

そう尋ねると、「ええ」と簡潔な答えが返ってきた。
医者が言う言葉だ。
正しいのだろう。

それなのに………何故か間違っていて欲しいと思う自分が居て、悠理は戸惑った。
解消出来ないもやもやが胸を覆う。

その後、病院を後にした悠理は、可憐に電話をかけた。

「妊娠してなかったぞ!」

「ほんとに??」

可憐も予想が覆され、異様に驚いていた。

「あのさ。今から可憐ん家行っていい? 」

帰っても独りと考えれば、こうするほかない。
悠理は努めて明るく打診した。

「もちろんいいわよ。タクシー使ってうちに来てちょうだい。」

流れていた一台に颯爽と乗り込み、流れる街並みをぼーっと見つめる。
雨の後の景色は全てがクリアに見え、目に眩しい。

美しくて、美しくて───

不意に、悠理の頬を一筋の涙が流れた。
熱い水滴が手の甲にポタリ、落ちる。

あたいはもしかして欲しかったんだろうか?
あいつとの赤ちゃんを。
全然、覚悟もないくせに?
育てる自信なんか、一ミリもないくせに?
世界を遊び足りないと思ってるくせに?

ピロリロリン♪

涙を拭き、手元の携帯を覗く。
そこには夫からの短いメッセージが。

『明日早朝に帰るから………その時、話を聞かせてくれ。』

気の利く可憐が伝えてくれたのだろう。
たった二行の文字に、悠理は深く癒された。

覚悟なんてなくても………
もし、あたいのお腹にやってきてたなら、全身全霊で守り、可愛がってやったのに。

未だ何も存在しない下腹を優しく触る。

“いつか”が、明日でも構わないから。絶対に来いよな。

悠理は薄く微笑むと、心配性の夫を安心させるため、窓越しの空を映す画面に指を滑らせた。