譲れない存在

※清四郎がようやく目覚めた。悠理への想い


肩にかかる重み。
上下する薄い胸。
規則正しい吐息がかすかな音を立てる中、僕はこみ上げてくる愛しさと苦しさの狭間に立たされていた。

お世辞にも恋愛に向いているといえない自分が、何をとち狂ったのか、今はこの小猿に心奪われている。
かれこれ十五年。
幼少期からの付き合いだ。
彼女の長所短所、すべてを把握していると言っても過言ではない。
そんな僕がどうして───

────人の心はままならぬもの。

強力な母親の絶対的な力によって、婚約者があてがわれると聞いた時、突如として腸が煮えくり返った。
相手はどこぞの資産家の次男坊。
婿入り覚悟で話に乗ってきたらしい。
お誂え向きの釣書と胡散臭い営業スマイルは、彼があのクセのある夫婦に上手く取り入った証拠だった。

────こんな男に悠理を任せることは出来ない。

それは自分でも驚くほどの拒否反応だった。
と同時に湧き起こる戸惑い。
僕は自分の中に生まれた不可思議な感情の分析を重ねた。

彼女の家柄を考えると、一生未婚などあり得ない話である。
当然、あの母親が許すはずもないからだ。
勉強は出来ないものの、容姿を含めそれ以外の非凡な才能を持つ娘。
それらを受け継ぐ孫を、彼女が喉から手が出るほど欲しがっていると、僕はいやというほど知っていた。
だからこそ、この縁談には並々ならぬ本気を感じ、悠理の抵抗など通じないのではないかと不安になったのだ。

利己的な考えで婚約をした僕が、何を言えた義理か───

友人面で事態を掻き回すことはさすがに無様で、そんなことよりも悠理がどのような気分でこの話を受け止めたかが気になった。
あれほど縛られることを嫌う彼女が、いつになく大人しく、諦めたような表情で遠くの空を見つめる日々が続き、周りは余計な神経を遣っていたように思う。
だから僕も気遣ったのだ。
そして何より彼女の真意が知りたかった。

「…………いいんですか?」

「何が?」

二人きりになった放課後そう尋ねると、悠理は僕の顔を振り返ることなく、窓の外を見ながら答えた。

「………婚約、させられそうなんでしょう?」

「あぁ、母ちゃんのいつもの病気だろ?しばらくしたら落ち着くんじゃないか。」

「とてもそうは思えませんが…………」

百合子夫人の勢いは常人には考えられないものだ。
万作おじさんですら手出し出来ない領域の話となっていて、悠理の楽観視は命取りになる。
噂に寄れば、同級生の友人が初孫の写真を毎日のように送りつけてきているらしい。
それを羨む百合子夫人の心中は察して余りあった。

「好きでもない相手と、結婚させられちゃいますよ。僕の時のように。」

すると彼女はようやくこちらを振り向き、何とも言い難い表情で微かに笑った。

「…………やなこと、思い出させんな。」

それは静かだが強い攻撃。
僕の胸が抉られるほどの。

けして…………けして、あの時も悠理を憎くなど思ったことは無い。
どれだけ拒否されても、本当に嫌われるなんて想像もしなかったし、悠理如き扱えなくて世界の剣菱を動かすことは出来ないと思っていた。
それはもちろん大いなる勘違いであったが。

騒動の後も何事もなかったように友人へと戻り、温かい仲間達の歓迎を前に、自分の愚かさを反省した。
和尚の元から戻ってきた彼女は、クタクタになりながらもいつも通りの笑顔を見せ、僕は心底ホッとしたことを覚えている。
彼女を失う現実はあまりにも怖かった。

「………おばさんを甘く見ちゃだめですよ。」

「ふん。毎度毎度、母ちゃんもよーやるよ。」

「自慢できる可愛い孫が欲しいんでしょう?」

「んなもん…………待ってりゃいつか産んでやるのに。」

「────え?」

聞き捨てならない台詞を拾い上げ、僕は悠理の顔を注意深く見つめた。

「結婚…………するつもりなんですか?」

「そりゃ………“いつか”な。」

「嫌悪感しかないと思ってましたが。」

「相手によるだろ?」

「相手…………なるほど、ね。」

その時、無性に悔しさがこみ上げてきた。
自分以外の誰かと結婚する悠理を想像すれば、胸の内が不快感で埋め尽くされる。
押し殺せない感情など存在しないと思っていた僕は、思わず拳を窓ガラスに叩きつけそうになった。

「………………清四郎?」

不穏な空気を読み取ってか、悠理が驚いたように見上げてくる。

このまま、押し倒してやろうか?
強引な手を使ってでも既成事実さえ作れば、動物並みに単純な娘も言いなりになるのではないか?
体に覚えさせる方が手っ取り早い………むしろそんな相手だ。

鬼畜な考えが頭を過ぎる。
が、さすがに実行することは出来ない。
拳を納め、殺気を消すため息を整えると、不安そうな悠理がホッと胸を撫で下ろしたのが解った。

「僕では───おまえのお眼鏡に適わなかったわけですし、結婚するとなるとよほどの相手なんでしょうねぇ。」

自分でも卑屈な台詞だと気付いていたが、言わずにはおれなかった。
僕以上に強く賢い男など、そうそう居ないはずだが、悠理の求めるレベルはもっと高い位置にあるのかもしれない。
何せ父親はあの人だ。
必然的に目が肥えている。

「なんだよ。蒸し返して…………」

「別に………意味はありませんよ。」

「あたいだってな………せめてあたいのこと、女だって認めてる男と結婚したいよ。いくらおまえがイイ男でも………一生ペット扱いされんのは………ヤダったんだ。」

「…………え?」

耳を疑うその言葉に、僕は微かな希望を見出した気がした。
悠理が照れたように頬を染めたことも、背中を後押しする。

「………女扱い、してほしかっただけ?」

「そ、それだけじゃないぞ??あん時のおまえ、ほんとヒドくて………ちっともあたいのことなんて見てなかったじゃん!忙しくて、ピリピリしてて、清四郎なのに清四郎じゃないみたいで………」

尻すぼみになっていく言葉。
僕の脳内でそれは何度もリフレインされる。

悠理は僕が苦手なはずだ。
もちろんその理由も解っているつもりだった。
でももしかすると、苦手意識の突破口は意外と簡単に見つかるのかもしれない。

「悠理…………」

「なんだよ。」

「あの時の僕と、今の僕は違います。」

「え?」

意味が分からないと首を傾げる彼女を、その時の僕は思いきり抱きしめるしか出来なかった。

「せ、せぇしろ??」

「…………おまえを誰かに奪われるなんて………考えたくもない。相手がまだ見つかっていないのなら、僕にしてください。」

必死だった。
彼女の気持ちを揺さぶる為に、慣れない懇願をした。
腕に力を込め、細い体をしぼるように抱きしめた。
僕の体温を、想いを、その身に焼き付けるように───

「な、なんだよ!どーせあたいなんて女じゃないんだろ??………いっつもバカにするくせに………あたいがどんだけおまえを好きでも………猿かペットでしかないんだろ………」

「……………え?」

聞き違いだろうか?
腕に閉じ込めたままそっと見下ろせば、涙目の悠理は恥ずかしそうに僕の制服に顔を擦り付けた。

「悠理?…………どういうことです?」

暫く、無言が続く。
グシッ
時折鼻を啜る音が聞こえ、彼女が冗談でそんなことを言ったわけでないと解る。

「僕を───好きでいてくれたんですか?」

痺れを切らし尋ねるも、悠理はジッと固まったまま。

「悠理!」

しかし無理矢理引き剥がしたその顔は、見たことがないほど赤く染まっていて、まさしく恋する乙女そのものだった。

「や、見るなっ!」

「本気、なんだな?」

「なにが!?」

「僕のことが好きなんでしょう?」

「知るか!!離せ!」

「ここで離してしまうほど、愚かじゃありませんよ。悠理───悠理!」

もう一度抱きしめれば、抵抗していた体がゆっくり力を失っていく。
話を聞く気になったと解釈した僕は、彼女の耳の側で確信的な言葉を囁いた。

「誰にも渡さない。…………おまえが結婚する相手は、僕だけだ。」

「な、なんでだよぉ…………」

とうとう泣き始めた悠理が可愛くて仕方ない。
高鳴る鼓動は音速で増していくようだった。

「愛してるからですよ。」

思いがけず口から飛び出した俗っぽい愛の告白。
しかしそれは決して嘘などではない。
悠理を手放したくないという感情は、僕の中に秘められ、いつしか育っていた愛そのものだったからだ。

「アイ、シテル?」

「ええ。おまえを独占したいほど愛してる。だから他の男と結婚なんてさせません。」

濡れた頬を唇でなぞり、涙を啜る。
悠理はくすぐったそうに首を竦め、僕の目を至近距離で覗いた。

「本気、なんだな?」

「───ええ。悠理が欲しいんです。」

「母ちゃんに逆らっても?」

「もちろん。おばさんを説得する自信はありますよ。」

そうして─────
僕は一歩踏み出した。

悠理が想ってくれていると解り、かけていた留め金が全て外れたように思う。
愛しさが泉のように湧き出て、それは”僕だと思っていた僕“を完全に覆す事態だった。

おばさんは最初、訝しげに僕たちを探っていたが、悠理が真っ赤になりながら訴えかけたことで、何とか信用してもらえた。
当然、二度目の婚約発表が待っている。
恐らくはそう遠くない未来、盛大な式を挙げることとなるだろう。

 

そして今、僕たちは二人きりで冬の東北へと向かっている。
電車に揺られながら、僕は外の雪景色を眺めることなく、恋人の寝顔だけを見つめている。

幸福な画だ。

今夜二人は、想いを確かめ合い、互いの深い部分を知ることになるだろう。
もちろん悠理も覚悟の上でついてきた。
逃げ道など用意されていない、秘湯の宿へ。

愛しさと苦しさ。
果たしてこの息苦しいほどの愛情を彼女に注いでもよいのだろうか?
三日三晩、飽くことなく抱き続ける。
自分でもどうなるかわかったもんじゃない。

「はぁ~。だから恋愛なんて………嫌だったんですよ。」

「…………んにゃ?も………着いた?」

可愛い声と甘えた仕草。

「あと一時間はあります。寝てなさい。」

培ってきた理性も、規律正しい自分も、全てを失わせる絶対的な生き物。
溺れればそこは楽園かもしれないが、見えない不安も確かに存在する。

「せぇしろ………いっぱい遊ぼーな。むにゃむにゃ………」

「ええ。………おまえとなら一生、楽しく過ごせますしね。」

僕はもしかすると世界一愚かな男かもしれない。
それでも、悠理を手に入れた先に広がる刺激的な誘惑には勝てないでいるのだ。

「つくづく厄介な性格ですな。」

彼女の肩を抱き寄せ、僕は曇った車窓にそう呟いた。

雪は激しさを増していく。
僕たちの痕跡を消すように、しんしんと・・・