Challenger

「へへ。いつも悪いね。美味しく頂くよ!」

「悠理様♡♡♡」

彼女の日常は基本賑やかで───
食べ物を中心に世界は廻っていると言っても過言ではない。
信奉者達はせっせと貢ぎ物を届け、少しでも彼女の晴れやかな笑顔を見たいと望む。

「あの子の手作りクッキー、最高に旨いんだぜ。」

「それは何よりですな。」

何の見返りも求めず、ただ笑顔を拝みたいだなんて───
自己犠牲の極致だと思うが、そんな気持ちも分からなくはない。
事実、この僕すらも、彼女たちの感情に同調し始めているのだから。

「悠理、放課後、時間ありますか?」

「ん?どったの?」

「旨いと評判のパンケーキ屋さんが表参道に出来たんです。お付き合い願えないかと思いまして。」

「え!パンケーキ?好き好き!絶対行く!」

上気する頬と輝く瞳。
とてつもなく可愛いと感じる瞬間だ。

「でも………おまえ、パンケーキ好きだったっけ?」

「え………あ、まあ、最近、その良さに目覚めたというか。」

「ふーーん………ま、いっか。行こ行こ!」

チラッと視線を流せば、悪友達の意味ありげなしたり顔が飛び込んでくる。

───別に構いませんよ。どう思われていても、ね。

「ねぇねぇ、もしかしてせぇしろちゃんの奢り??」

飼い主にすり寄るペットのようなその姿にすら、キュンと高鳴る胸が恨めしい。
動機、息切れ、眩暈はしょっちゅう。

まさかこの僕が───恋に落ちてしまうだなんて。
天と地が逆さになっても有り得ないと思っていたのに。

悠理が愛しくて仕方ない。
他の誰かに奪われたくはない。

そんな強い思いを抱き始めたのは一ヶ月くらい前のことか。
初めての感情にショックを受け、あまつさえ相手が悠理だということに知恵熱すら出してしまったのは記憶に新しい。

姉貴の所見では「思春期特有の機能性高体温」らしいが、“ホルモンバランスの乱れ”などかつてない経験だし、自身のコントロールくらい朝飯前だったはず。

「あんたも人間的なところあるじゃない。」

含み笑いをする彼女は、全てを見切ったような顔つきで僕の頭を撫でた。
まったくもって不愉快な話である。

初恋───

僕は恋をしたことがない。
もちろん理想とする恋人像はあるにはあったが、そんな女性は成人してから探せば良いと思っていた。
聡明で優しく、出来れば美人に越したことはない。
男を尻に敷くのではなく、二歩下がった場所からそっと支えてくれる、しかし芯が通っていて自分の意見を持つ女性が好ましかった。

だが皿をひっくり返せば、まさかの事態。
野生ザルにも劣らぬ身体能力と、幼児並みの知能。
それに加え、トラブルのデパートが開ける程
彼女の周りは騒がしく、心安まる暇もない。
無論………友人としてなら歓迎もするが、いざ恋人となると悩むところである。

恋人───
悠理が恋人。

昔は結婚してもいいと思えるほど、彼女の背後関係は魅力的だった。
しかしあの夫婦に付き合うとなると、命はいくらあっても足りない気がする。
実際、悠理の悪運がなければどうなることやら。
それに加え、和尚の鋭い拳に叩きのめされた過去も傷となり僕の胸に残っていた。
かといって、いつまでもグジグジする性分では無いため、普段は思い出したりしない。
時折、痛むだけだ。

僕たちほど恋愛からほど遠い人生を送る人間はいなかったはずなのに。

このような感情が芽生え、育ち始めている今、もどかしいくらい悠理が欲しくて仕方なかった。

切っ掛けなど些細なこと───
事実、彼女の居眠りする姿にノックアウトされただけだ。

仮眠室で見た愛らしい寝姿は人形よりも可愛く、ご馳走の夢でも見ているのか、ピンク色の唇がむにゃむにゃと動く様は、思わず触れたくなるほど心そそられた。

大口開けて鼾をかく寝姿など、数え切れないほど見てきている。
はだけたパジャマから覗く腹を掻き毟る姿も。

しかし、抱き枕代わりのクッションを抱きしめ横たわる無防備な悠理は、いつもの騒々しさからはほど遠く、つい、男として触れたくなる要素が満載だった。

触らなかった理由。
それは魅録が背後から「悠理、どこだ?」と呼びかけてきたからに過ぎない。
彼の声が聞こえなければ………僕は一体何をしただろう。
真実を知るのはさすがに気恥ずかしい。

「なぁ、清四郎、聞いてる?」

「え?」

「だーかーら!“奢り”かって聞いたんだよ。」

「あ、あぁ、もちろん。」

「まじっ?気前良いなぁ~。」

本気で喜ぶ笑顔が眩しくて、直前までの回顧シーンを慌てて消し去る。
基本、何事も順序立てて行動に移す僕だが、彼女はどうしてこうも本能を揺さぶってくるのか。
たとえ心を無視してでも、
全てをすっ飛ばしてでも
手に入れたくなるだなんて。

それでも…………
僕は彼女に嫌われたくない。
最後の最後に踏み留まる要因はそれだ。
本気で嫌われでもすれば、この先の人生に影を落とす。
そんな自分は想像したくない。

だからこうして、少しずつ距離を詰める。
悠理の笑顔を引き出し、僕への警戒心を解いていく。

「清四郎。」

「なんです?」

彼女は身を乗り出し、耳元で内緒話をするよう手を翳した。
揺れる柔らかな髪が頬を撫でる。
くすぐったさとトキメキ。
思春期の少年と変わらないな。

「あたいだけ誘うなんて…………おまえ、なんか企んでるだろ?」

「───え?」

見抜かれた?
いや、彼女に限ってそれは──ない。

けれど………
ニヤニヤと弛んだ口元から、挑発的な言葉は続けられる。

「そう簡単に………落ちてなんかやんないぞ?」

ドキッ!
思わず目を瞠れば、悠理の瞳が蠱惑的に細められた。

もしやこれは、完敗───なんだろうか。
それとも素直になるのは今?

僕は渇いた喉を潤すべく、ありったけの唾液をごくっと飲み込んだ。